1964877 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

今日の気持ちを短歌におよび短歌鑑賞

今日の気持ちを短歌におよび短歌鑑賞

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2024.06.12
XML
カテゴリ:短歌

6月12日(水)

近藤芳美『短歌と人生」語録』  (20) 

作歌机辺私記(92年9月)

「批評の前に」

雑誌などで人の作品を批評することがある。或いは、歌会などで同じく人の作品を批評することがある。

わたしたちは短歌作者なので、いわば初めからその世界に浸り、其の世界のならわしになじみ、その世界でなされている作品批評であるものを当然と考えるといえるが、他の世界ではどうであろうか。たとえば俳句とか詩とか小説の世界では、それはどのようになされているであろうか。短歌に近接した世界である俳句のことは、幾分か知らないわけではない。それでは美術の世界はどうなのか。或いは音楽の世界はどうなのか。多分、そうした世界でも仲間たちが集って作品とか演奏などの相互の批評がなされることがあるのであろう。それは、どうようにし、どのような考えでなされているのであろうか。

わたしは短歌の場合においても、それは何よりも先に、一首の「詩」としての享受があった上でなされるべきものと思っている。すなわち、そこに、その作者は作品一首としてどのような「詩」を告げようとしているのか、そのことを先ず享受することから批評もまた始まるべきものと思っている。それが詩なり文学なりの読み方の当然の出発であり、批評というのはその次に来るものなのであろう。

みなさんの書かれた批評を読んだり、また歌会の席での発言などを聞いていると、そのことが抜けているのではないかと思うことがある。そこで何がうたわれようとし、どうような「詩」がつげられようとしているかを理解せず、また理解しようとせず、作品の部分部分をあげつらうことをもって批評と考えられておられるのではないかと思うことである。それがだれであろうと、人は短歌一首を作ろうとするときに、心の中にあるもの、ないしは「詩」であるものを、何らかの程度に告げ伝えようとしているはずである。

それを最初から聞こうとせず、理解しようとしないまま、文学の批評などあり得ないのであろう。

わたしがまだ若く、一大学生として、東京青山の「アララギ」発行所の歌会などに出入りしていたころ、歌会の席にはしばしば斎藤茂吉も加わっていた。そうして時として、その茂吉の作品が批評の対象となろうとするとき、彼は批評の順にあたった当日の不運な出席者に向かい、君、僕の作品はもっとゆっくり読んでくれたまえ、としきりに注文をつけた。ゆっくりと読み、その一首全体の調べと共に作品全体を理解した上で批評をするように、というのであろうか。今日でこそ茂吉は短歌の神様のように思われているが、生前でもあるその当時、茂吉は歌壇のさまざまな批判にさらされ、一無名の少年会員のわたしさえなぜ彼の作品が本当に理解されないかと悔しむことがしばしばだった。同じ思いは、歌会の席でも茂吉の心を占め、愚かな批評への悲しみを抱かせていたのであろうか。(1992年9月)

 






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2024.06.12 07:51:20
コメント(0) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.