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今日の気持ちを短歌におよび短歌鑑賞

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2024.06.16
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カテゴリ:短歌

6月16日(日)

近藤芳美「土屋文明:土屋文明論」より

岩波書店近藤芳美集第七巻「土屋文明土屋文明論」よりの転載です。

『土屋文明序説』(十一)より

だがその日に、同じように作品に俄に加わっていくものに「思想」と呼ぶ内面の世界があったとわたしは考える。生活と、生活を通して歌う時代への凝視の作品に、その表現の多様な屈折と共に歌い込められていくものである。再びいうならそれは過ぎ移る戦後という歴史の視野の中に、静かに見定められていく、国と、社会と、生きて苦しむ民衆への「思い」である。歌人である文明はこのころからようやく思想者としての「思い」を作品に籠めていく。そうした時期と重なって例えば、「短歌は生活の表現といふのでは私共はもう足りないと思ってゐる。生活そのものである」(「短歌の現在及び将来に就いて」)等という言葉が語り出される。「生活即文学」の思想である。この場合「生活」は「生」ないし「生き方」とも言い替えるべきであろう。その場合もまた「生活」は「生き方」でもなければならない。「文明選歌欄」の仕事を通して、文明の眼は深い愛情を民衆と呼ぶものの上に向けつづけられていく。

昭和二十五年、すなわち『自流泉』の終りに近い時期に「道の上の古里人に恐れむや老い行く我を人かへりみず」「この谷に入りなばゑぐの残るらむ雨のふる田を見て引きかへす」の一連があり、少年の日に離れ去った故郷を久々に訪れる老年の感傷が告げられる。だがその感傷には「道の上の古里人に恐れむや」という思いがつねにともなう。そこは彼と共に、彼の父と一家とが追われるように捨て去った地である。

故郷に対していだく感情は長く懐かしさだけではなかった筈である。

彼の故郷再訪、もしくはその追憶の作品はもっと早く、例えば『少安集』に「亜炭の煙より食物を錯覚せし少年の空腹を語ることなし」、『山の間の霧』に「馬鈴薯が村に入りし頃の記憶あり真珠なす新しさ堀り飽かざりき」等、ことに戦時にかけて随所にみられるが、それらに少年時回想として歌われているものは貧の記憶であり屈辱を込めた農村への共感が覆いかぶさっていく経過を、わたしたちは疎開者の日々の作品にかけてしだいにたどっていくことが出来る。老年につれて歌われていく愛情、共感は都会の知識階級として生きた文明が生涯心の底に持ちつづけたものであり、彼の生き方を含めて文学ないし思想というべきものを根底に規定するものだったのであろう。

 (つづく)






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最終更新日  2024.06.16 07:05:48
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