☆じゃがべぇ~(^_-)-☆

2009/07/13(月)18:20

「神武東遷」の足跡。

社会科(地理・歴史)(105)

ことの起こりは南海電車の駅の広告ラックにあった一枚の案内チラシなんだ。 ←これ これ、A3の二つ折りの綺麗なリーフレットで南海沿線の面白ウォーキングコースを紹介されてるんだ。 で、この「8、樽井・熊野街道コース」ってやつの中を開いてなんとはなしに見てたんだけど妙な物に眼がとまった。 この、「山之井・神武天皇が上陸したと伝わる山之井水門があったところ。当時、この辺り一帯は海だったんだね。」っていう吹き出しなんよ。 初代天皇の神武天皇が宮崎県から奈良に都を移したことを「神武東遷」というんだけど、その時に神武天皇一行が、大阪府の泉南市に上陸しただなんてホンマかいな?って思ったんだ。 昔から僕が知ってたのは、 ”神武天皇は大阪の今の東大阪から生駒を超えて奈良に入ろうとしたけど、抵抗が強くて入れなくて、一旦大阪湾に出て南へ向かい和歌山から上陸して八咫烏(やたがらす)に案内してもらって奈良に行きついた” みたいな話だったもん。 で、今年に入ってから、僕には古代のマイブームが来たりなんかしたもので「古事記」と「日本書紀」は買ったので、その部分を読んでみた。 日本書紀・巻第三・神武天皇・五瀬命の死  五月八日、軍は茅渟(ちぬ)(和泉の海)の山城水門(やまきのみなと)についた。そのころ五瀬命(いつせのみこと)の矢傷がひどく傷んだ。そこで命(みこと)は剣を撫で雄たけびして、「残念だ。丈夫(ますらお)が賊に傷つけられて、報いないで死ぬことは」といわれた。時の人は、よってそこを雄の水門(おのみなと)と名づけた。  進軍して紀の国の竃山(かまやま)に行き、五瀬命は軍中になくなった。 古事記・中巻・神武天皇・一東遷 そこでイツセノ命が仰せられるには、「私は日の神の御子として、日に向かって戦うのは良くなかった。それで、賤しい奴の矢で重傷を負ったのだ。今からは東回りして、日を背に負うて敵を撃とう」と誓い、南の方から回ってお進みになったとき、血沼海(ちぬのうみ)に至って、その御手の血をお洗いになった。それでその海を血沼海(ちぬのうみ)という。そこからさらに回って進まれ、紀伊国の男之水門(おのみなと)に至って仰せられるには「賤しい奴のために手傷を負うて死ぬことか」と雄々しくふるまって、お亡くなりになった。 この古事記と日本書紀を読み比べて、”はっはぁん”と少し合点がいった。 日本書紀では東大阪から大阪湾を南下して大阪湾内で大阪南部に一度上陸して和歌山に向かってるんだけど、古事記では水路で大阪湾を南に抜けて紀伊水道を通り和歌山で上陸してるんだ。 僕が、なんとなく覚えてたのは古事記のほうだったのかも知れない。 そうではあるんだけどリーフレットに載ってる「山之井水門(やまのいのみなと)」が、日本書紀の「山城の水門(やまきのみなと)」の事だというのが納得いかないんよね。 いろいろネットで調べ倒したんだけど「山之井水門=山城の水門」とされる理由がどこにも書いてないんよ。 だけど調べてるうちに、このリーフレットに示された南海本線樽井駅周辺に気になる所を何箇所も見つけた。 『茅渟神社』…なんせ大阪湾を茅渟海としたのは、和歌山で亡くなった五瀬命が傷の血を洗ったからだって事を古事記では「血沼海(ちぬのうみ)」って字を当ててるし、茅渟神社の名前は関係ありそうだもんな。 『山の井遺跡の碑』…ここへ行けば「山之井水門=山城の水門」のわけが分かるかも知れない。 『山ノ井遺跡の碑』…上の碑の「ノ」が「の」になってるだけの、この場所も謎だ。 『旧樽井町役場・山之井神社跡』…昔、山之井神社というのがあったみたいだし、ここにも何か書いてあるかも知れない。 『天神の森』…よその場所なら「天神」という字面にも何にも感じないと思うけど、ここにある「天神」だと神武天皇陣営・アマツカミって意味じゃないかと勘ぐっちゃうんだよな。 『男神社(おのじんじゃ)』…日本書紀の「雄の水門(おのみなと)」との関係がありそう。 でね、上の6ヶ所を回って来たんだ。 なんせ、うちから電車で乗り換えなしに行けるという超簡単な場所だしね! この南海本線・樽井駅というのは関西国際空港の対岸の泉佐野駅から和歌山方向へ4つ目の駅なんだ。 だから、樽井でも海岸に出れば向かいに関空が見えるというそんな場所なんだ。 『茅渟神社』 ここは神武東遷との関係については何も書いてなかった。 茅渟神社の名前の謂れも分からなかった。 『山の井遺跡の碑』 ここが、そうなんだけど、井戸があったので山之井というのは井戸のようだった。 石碑に漢文がみっちし掘ってあった。 多分、日本書紀の原文であろうと思った。 「向紀伊至而進途經茅淳至山井水門五瀬命瘡劇」という字を読めた。日本書紀の現代語訳は持って行ってたのでページを繰ってみたけど現代語では同一のものか判断出来なかった。 なんか変だよな。 「山之井水門」が「山城の水門」に化けて、城が井戸になってしまって、ちゃんと井戸跡があるんだもんな。 ううむ…、やって来たけど、やっぱり解らない(^_^;) 『山ノ井遺跡の碑』 こちらは立派で綺麗に整備されてた。 これが、この場所の謂れ書きだけど、これ酷いでしょ! 道路を造るので、元々の謂れの地を、ここへ移動させたんだってさ。 この場所が本当の謂れの地。 こんなの建設工事の邪魔になるだけであって、別にここに保存するのなんかた易かったと思うよ!NHK大阪放送局や大阪歴史博物館の地下の遺構を保存するなんてこともやってるのに、道路工事の邪魔だって事だけで、よそに移すなんて最低だと思った。 そんなんで、ここも見た目が綺麗なだけに余計に胡散臭いと思ってしまった僕でした(^_^;) 『旧樽井町役場・山之井神社跡』 ここは、残念ながらまったく由緒書きがなくて、なんにも分からなかった。 ここは小学校の敷地内にあったので警備のおっちゃんに訊いてみたけど、この石碑以外には何にもなくて、何にも分からないって事だったよ。 『天神の森』 なんとなく「天神の森」という名称が気になって訪れたこの場所が、なんとまぁ本命の場所だったんだよ! ここ「天神の森」は「男神社(おのじんじゃ)摂社・浜宮」となってて、ここは太古においては海で、こここそが「山城水門(やまきのみなと)」だったんだってさ。 森の中に石碑も立ってた。 この場所の謂れ書き。 『男神社(おのじんじゃ)』 広大な森に囲まれた、とっても素敵な神社だったよ。 謂れ書き。 先に行った天神の森にある浜宮が、男神社の元宮で神武天皇の一軍が上陸したところだと書いてある。 だけど、この内容は日本書紀ではなくて古事記によるもので、水門の名称は「雄水門(おのみなと)」となってる。古事記による「雄水門」は和歌山のはずなのに、ここだと書いてある。 いろいろ回ってみて思ったんだけど、きっといろんな人がいろんな説を主張してて、何にも確かなことは確定してないんだろう。 なんせ神話の時代の物語だし、資料は古事記と日本書紀しかないんだけど、日本書紀と古事記がなんだかごっちゃになってて、どこも、もうひとつピシっとしないって感じだったな。 帰ってから日本書紀の原文を調べてみた↓ 《神武天皇即位前紀戊午年(前六六三)五月癸酉(八)》五月丙寅朔癸酉。 軍至茅淳山城水門。〈 亦名山井水門。茅淳。此云智怒。 〉 時五瀬命矢瘡痛甚。 「またの名を山井水門」って書いてあった。 だけど「港に井戸」ってのが僕には腑に落ちなくて、やっぱ信憑性をますために井戸をあとから付け足したような気がするな。 最後に、僕が回った、この6箇所の場所を示した地図を載せておくね。

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