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テーマ:仏教について思うこと(1013)
カテゴリ:親鸞会
滋賀会館の報恩講に参詣させて頂き尊い善知識の説法本当に有難く思っております。
それにつきましてもただ今は貴重な二日間をボンヤリ過ごしてしまったという気持一杯でございます。 それでいて仕事はしたくなく少しでも楽がしたい私で家族の者から注意されれば腹が立って素直にハイと言えなくて不平ダラダラで一歩外に出れば他人を見くびり見栄をはりたがる私です。 こんな横着で、きたない自分を見ればみる程早くこんな心を解決したいと思う思いで一杯でございます。 善知識はこの度も報恩講の意義は大満足の身になることだと叫んで下さいました。 今の私はただ大満足の心になりたい一心でございます。 生きる意味は唯それ一つだなァと痛切に感じた日でございました。 私はいつまでもダラダラと生きていたくありません。 阿弥陀仏の若不生者の誓いがあり実際に救われた善知識がおられるのですから私も求めぬきます。 私は先生にお遇いして初めて物事に「徹底する」ということを教えられました。 小学校から大学まで十六年間の学校教育を一体何を学んで来たのかと今思われます。 あやふやなことは大嫌いだと仰言る善知識の言動を見て今までの私が余りにもあやふやな自分であったと思わずにいられません。 「どうにかなる」主義で何一つ徹底したことがありませんでした。 ですから大学時代にあんな原理運動なんかに首を突込んだのだと思います。 正か邪か、徹底して考えたならその見分けがついた筈だと思うのです。 先生から一つづつ矛盾を突いて頂いて漸く全く幼稚なものを信じていたものだと自分の程度が知れて来ました。 同時に仏教の偉大さがよく判りかけて来たこの頃でございます。 まだまだ私と同じ程度の学生がたくさんいるのを見て初めは馬鹿だなァと思いましたが今は彼らがとても可愛想に思えてなりません。 早く彼らに仏法を納得出来るように話せるようになりたく思います。 その為にも徹底して求めようと思うのです。 善知識は私達の眼前で 「私は親鸞学徒の一人も地獄に堕すことなく必ず信心獲得まで導いてあげなければならない」 と言って下さいました。 語られる先生の真剣さに勝る真剣さで聞かねばならぬ私達がボサッとしているのにはがゆく感じます。 善知識は風邪で時々説法を中止しなければならぬ程でいらっしやるのに、こちらが今月末の福井の浄土真宗の法座のことを切り出すと「福井は死んでもいくよ」とニッコリ笑われたとかききましたが何んともいえぬ力強いものを感じました。 史上初めてと言っても過言ではないと思います。 それにしましても私が仏法を聞かせて頂くようになるなんて去年の今頃は夢にも考えていませんでした。 母をどれだけてこずらせたか判りません。 父と母はどうか統一教会(原理運動)だけは行かないでくれと私の目の前でポロポロ涙をこぼして泣いたこともあります。 今もあの時のことを思うと親不孝な私だったと詑びずにいられません。 仏法を聞くことも有り難いことであり善知識に遇うこともまた有り難いといいますのに私の場合は凡て御膳立てしてあってそこに楽々と飛びこんで来たようなものです。 この上は求めるより外に道がないことを知らされました。 強情で礼儀も何も知らない私でございます。 どうぞ宜しく御教示下さいますようお願い致します。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2019.07.04 18:00:09
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