ぜんちゃんの風に吹かれた日々

2005/01/31(月)03:30

「何をしてあげたか」と「何をしてもらったか」記憶のチカラ。

数日前、友だちのKくんが突然真夜中に電話を寄こした。 職場のTさんの誕生会だという。 そしてTさんがボクに会いたがっているので今から出てこないかと一方的に言ってきた。 時計は午前0時を回っているのでとりあえず丁寧に断った。 Tさんに去年ペットが飼える便の良い賃貸アパートをお世話した。 Kくんの話しだとそれがとてもTさんは感謝だったらしく誕生会でつい酔いに任せてボクを呼ぼうという事になったらしい。 「ほんとにお世話様でした。ぜひ、ご一緒したいのですよ。来て見ませんか?」 Tさんは明らかに酔いが回っているようだった。 確かにKくんの職場の人だからそれなりに、いい物件をお世話したいと張り切ったけれど仕事として当たり前のことをしたまでだ。 しかし人によってこんなに感謝されるなんて少し恐縮してしまった。 「自分が人にしてあげたこと…」 「そして自分が人にしてもらったこと…」 たまにこんな心の奥の魂の部分をみつめる作業をしてみることがある。 励ましの言葉や慰めの言葉は大きなチカラになるだろう。 しかし人にはその人の行動が鮮やかに記憶に留まるものだ。 Tさんの件もボクは仕事として当たり前にこなしたのだろうけれど彼女の眼からは何かしらのボクの行動が特別に印象に残ったのかも知れない。 以前に書いた事だが二年前、ボクとクリスチャンの仲間であるKさんが精神的にかなり落ち込んでいた事があった。 そんなときサックスプレーヤーであり伝道師であり神学校の学長でもある岸義紘先生と三人で食事をする機会が与えられた。 先生はボクらの悩みを聞くわけでもなく、終始微笑を絶やさずただ「おいしいね、おいしいね」と豪放磊落に食事を楽しんでいた。 そんな先生のうれしそうな顔と感嘆の喜びの言葉に自分たちの思い煩いがとても小さなものに思えてきたのだ。 程よくして先生はこう言った。 「またゆっくり聖書を読み返してみたらええですよ。大丈夫」 そしてまた料理を舌ずつみ「ほんとうにおいしいね」と言った。 なんて自由で囚われない人なんだろう。 先生はとうにボクらのこころの状態を察していたに違いない。 だけどその問題を眉間にしわ寄せ深刻に対処するより一先ずその荷物を背中から降ろし楽しく食事をしようと考えたのだろう。 「大丈夫…教会につまずいているなら二人で教会を作りゃええ」 岸先生もいろんなところを通ってきた方だ。 そんな自分の体験を語るわけでもなくジョークのひとつを捻り出すそのゆとり。 ボクたちはそんな先生に触れてとても大きなチカラを得たように思えた。 いまでも先生の顔をほころばせ料理を舌ずつみする情景が頭に浮かぶ。 人が人に与える印象はそれぞれである。 だけど「何を言ってくれたか」ではなく「何をしてくれたか」 が鮮明に記憶しているのだ。 朝の3時15分、ボクの玄関でにぶい音がした。 玄関を開けるとKくんとTさんが暗闇に立っていた。 「げへへへっ…会いたくて…」 「何だよ!何時だと思ってるんだよ!」 「げへへへっ…ゴメン…顔見たくて」 暗闇の中でTさんは言った。 「すんません…」 「ねえ、もう朝だよ。ゆっくり今度会いましょうよ」 ボクはふたりに何を感じ、二人はボクに何を感じたのだろう。 今日夕方、オフィスに寄ったら机の上に「白菜漬け」と饅頭二個上がっていた。 本店から「あやや」が来て行ったのだ。 グズグズガダガダうるさい「あやや」もいいとこあるのだ。 何度か弁当作ってくれたことがあるけれど正直「美味い」のだ。そうなのだ。グズグズガダガダいう感情的生物だけどやっぱり女性なのだと再認識する。 おい、白菜食ったぞ! 漬かり具合微妙に良かったぞ。って面と向かって言えないので このページで言っておく…。ありがとう。 してもらったこと…。たかが白菜漬け…だがボクにとって記憶に残っていくのだと思う。

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