2014/12/05(金)10:48
自由
養老猛司の「バカの壁」を再読している。再読して見ると大概読んだ本の内容・・特に中身について失念している事が多い。養老氏の「確実なことは何か」その文章の中で、「常に私達は確実な事を探し続けているわけです。確実な事は何もないじゃないかと思っている人だって、実際には家に今晩帰宅した時に自分の家が消え去っているなんて事は夢にも思っていない。本当は家事で消失している可能性だってないわけじゃないんです」と言うくだりがある。先日「遺体」と言う映画を見た。2011年、3月11日14:46分18秒、マグニチュード9.0、震度7、東日本大震災で起きた未曾有の災害で海に流されて運ばれてきてた遺体をどう処理し、どう行動していったかという話である。「確実な事はない」まさにそれを現実のものとして捉えた出来事であった。「想定外」日常的な事でも、予定していた電車が来ない、上がるはずだった株が下がってしまった。妻に喜んでもらえると思っていたキャンピングカー旅行を拒まれてしまった(55歳のハローワーク)まさに、確実な事はない毎日に囲まれて私達は暮らしている。養老氏は「もう何も信じられないと頭を抱えてしまう必要はない」と言っている。でもそういう不安定な心から解放されたくてカルト宗教に走ったりもすると言っている。で、まあない頭でそれらを総合して考えると、未来にはいいことが待っている。未来がよくなるように、今出来る最善の事を尽くしていこう。そう考えるしかないって事に気づく。未来は過去の反省と現在の希望をミックスして進んでいるから。「映像の世紀」11巻全部見終わったときに国としての残酷さ、一人の独裁者の残酷さを痛感した。「確実な事はない」ゆえに、確実にしていくため、国、独裁者となって戦争をしてしまった。国家としての未来をよりよくしていくために大量の人間を虐殺してしまった。国家と個人にミクロとマクロ視点の差はあれ、人は確実さ、わかりやすく言えば、真実、常識を求める。最低限法律がある。が・・・つまるところ確実さを求めていくと一つの意見に集約される嫌いがある。それは行き過ぎると危険となる。様々な選択肢が生かされている上で、確実と思われる場所に到達していく。自由と言い換えてもいいかも知れない。