2007/05/04(金)20:51
高校英語再考の必要性
うちの教室・私から見ると
英語が出来る子(英語の長文が読める。文が作れる)が、
その担任から
「英語の基礎が全然わかってない!」と罵倒されたという。
よく話を聞くと、
例えば
enough to~
「~できるほど・・・・」→「程度」
「(十分)・・なので~できる」→「結果」
と説明できない事などが原因らしい。
しかしながら、彼女はenough to~を使って、実に現実的な文を作ってくれる。
ちゃんと訳することも出来る。
「程度」「結果」と説明ができなかったらしい。
「程度」「結果」などと日本語で分析・分類することが
英語を理解している基準として、優先されることなのだろうか。
私自身、イギリスに留学していた時に、
to不定詞の、名詞的用法、形容詞的用法、副詞的用法。
現在完了形の「経験」「完了・結果」「継続」
と分けて教えられることはなかった。
「なぜ構造分析して教えないのか」と質問すると、
「それが何の意味がある?そういうこと自体が理解できない。
文法的構造分析よりも、英語を使えることの方が大切なのです。」
と先生が答えられたのをいまでも覚えている。
高校の、外国語学習の目標が、言語構造の理解から、
コミュニケーション能力(自分たちの思っている事を伝えあう)の育成へと変化しているのを理解しえていない体質がある。従来の教授法に固守する必要性はない。
すでに英語をコミュニケーションの手段として使えるこどもたちの存在がある事を
考慮する必要性を感じる。
言語構造の分析は大学での選択科目にすればいいのではないかと思う。