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ちょっと本を作っています

ちょっと本を作っています

その1

第一章 倒産、そしてラストチャンス




戦場からのラブコール

私は出版業を営んでいる。

その私が、バブル崩壊の直後、一九九二年に自分の創った会社を倒産させてしまった。

社員も十人少々で年商三億円程度の規模だった。

比較的社員数の少ない出版社の中にあっても『小規模出版社』の部類に入る。

他にもさらに小規模ながら子会社を2社持ってはいた。

親会社がこの程度の規模なので、推して知るべしだろう

幸いにも解散することなく、そのまま継続してはいる。

だが、長引く不況もあって、いまだ倒産時期とあまり変わり映えのしない状況である。

とても再建へ向けて前進しているなどとは恥ずかしくて言えない。

後ほど紹介するが、倒産以降は当然として、実は倒産させる以前から悪戦苦闘の日々が続いていた。

いずこの企業も同じだが、倒産するには倒産するだけの理由がある。

その多くが経営者の資質と能力不足、判断の甘さに起因することは疑いのない事実だ。

会社倒産以降、多くの人たちに支えられながら、今も再建へ向けてチャンスをうかがい、努力を続けている。


長引く不況のために倒産する会社が多い。

倒産しないまでも資金繰りに追われ、先の見えない不況や売上げ減少に、眠れぬ日々を過ごす経営者が増え続けている。

『倒産回避マニュアル』といった本が次々と出され、『ナニワ金融道』で一躍有名になった青木雄二氏のマンガが良く売れていることも世相の反映であろう。

出版人として思うことだが、本をあらわすには視点が必要なのだ。

企業倒産を例にとれば、経済学者なら法則論、経営者なら危機回避のための知恵と経験に基づく教訓といったところが視点となる。

最近、倒産経験者の本が次々と出版され話題を呼んでいる。

これもまた一つの視点と言える。

他山の石と言うこともあるが、成功例より失敗例のほうが、実感もあり、共感も呼びやすいのかもしれない。

だが、倒産経験者の本もよく読んでみると、その後成功して経営に対して一家言持っている人や、自分の経験を元にコンサルタントに転身した人などの本が多い。

その人たちの経験が半ば風化し、美化され、思い出話になっていることのほうが多いように見受けられる。

折角の貴重な、地獄のような体験をしてきた人たちなのに、評論家の視点とあまり変わらなくなっているのだ。

ベトナム戦争の時、日々の血生臭いニュースを配信し続けて、アメリカ本土にまでも戦争の悲惨さを伝えたのは、戦場にいた特派員たちだった。

彼らは戦場を離れてから記事を書いたのでも、ましてや電話取材や憶測で記事を書いたのでもない。

今、多くの経営者が思い悩み、先の見えない暗闇に呆然として立ち尽くしている現状を目の当たりにして、一足早く倒産を経験し、今さらジタバタしても始まらないと覚悟を決めた一事業経営者として、自分の想いを伝えることが、出版人としてのわずかばかり残った責務のように思える。

常にリスクと背中合わせなのが経営であり、リスクを分散させたとてリスクがなくなるわけでもなく、私のいくばくかの経験がそれほど役に立つとも思えない。

まして事業経営に一度ならず失敗した私が、人に何かを教え導くことなど出来るわけがない。

この本にまとめたいのは、同時代に生き、経営者として同じような苦しみを体験している同胞に対する激励のエールである。

同じような馬鹿が、同じように苦しみ、それでもまだ頑張っているぞと伝えたいのだ。



倒産へのプロローグ

誰も電話に出ない。

ほんの一時間ほど前には通じたのに、電話のベルが鳴り続けている。

今日は六月五日、午後四時を回ったところだ。

「仕手決済の資金が足りない。少しでも何とかなりませんか」と、電話をもらったのが正午前。

「俺のほうも余裕がないよ」と答えると、「ほかを当ってみます」と電話が切れた。

三時頃に電話を入れた時には、「社長はただ今銀行のほうへ出向いております」と事務員が答えてくれたのだが。

「ちょっと出かけてくる」と声をかけ、クルマに飛び乗った。

事務所のドアには鍵がかかっていない。

ノックもせずに足を踏み入れると、応接セットにA理工の社長と幹部社員四人が座っていた。

「社長。やっちゃったよ」

A理工の社長が上目使いに私を見上げて、テレ笑いを浮かべながらつぶやいた。

「そうか」と答えるのが精一杯で、私もソファーに腰を降ろし、しばらくは灰皿の上のタバコが白い灰へと変わっていくのを見つめていた。


A理工と取引きを初めてまだ二年にも満たない。

それなのに、アッという間に抜き差しならない状況にまで陥ってしまった。

最初にA理工の社長が、別のA社の名刺を持って現われたのは夕暮れ時だった。

「御社のビデオの評判が良いので、ぜひ私の会社でも売らせて欲しいのですが」

「御社では書店さんで売っておられるようですが、レコード店やビデオの専門店のほうが売れますよ」

「書店以外の販路は、ぜひ私どもにお任せ下さい」

私の会社、『高石書房』と名乗らせてもらうが、書籍中心の出版物からビデオ部門へ事業を拡大してから三年が経緯していた。

スキーなどの実用ビデオを始め、その後に手掛けたディスコダンスのハウツービデオの売り上げも伸び、レコード店など、書店以外のお店からも問い合わせが急に増えてきた時期でもあったので、A社に販売依頼をすることになった。


毎月売上げが伸びてきた。

「私どものメインの仕事は、A理工でやっているビデオのダビングなんです」

「こちらが私の本体の会社なもんですから、ぜひ仕事を出して頂けないでしょうか」

ギブアンドテイクだとの申し出に、「それなりの売上げを上げてもらっているのだから」とA理工へ発注することにした。

そのうちに、「社長のところの売上げがどんどん伸びるものだから、集金が追いつきません。悪いんですがA社の支払いを手形払いに代えてもらえませんか」と頼んできた。

ビデオ売上は、A社より高石書房へ支払われるが、最初は翌月に現金払いだったのが、三カ月サイトの手形になり、さらには四カ月サイトにまで延びることになってしまった。

一方で、ビデオのダビング代は高石書房からA理工へ支払うが、当初から手形払いだったものだから、相手の社名は違っても、相互に手形を切りあうことになる。

まるで融通手形と変わらないような状況になってきた。

できるだけ相殺勘定にしようとするのだが、ズルズルと拡大するはめになる。

もうこれが限界だと思ったところで、案の定、先方が倒産してしまった。


「A理工はともかく、A社だけでも生き残れないんですか」

「相互保証しているので駄目ですよ。すべてがパアです」

期待もしていなかったのだが、予想どおりの返事が返ってきた。

今日は金曜日、私の会社の仕手決済日は毎月十日なので、土・日を含んでも五日しかない。

今月の決済資金はA社の手形を割り引いて充当する予定だった。

当面の決済資金が不足するだけでなく、今まで割り引いた分のA社の手形買戻しを含めると六千八百万円もの金額が必要になる。

ただ、「終わった」としか思えなかった。



「あんた、何てことしてくれたんだ」

倒産のドサクサの時に何があったのか、わずか七年しか経っていないのに記憶に霞がかかっているようだ。

あの時は、周りの風景さえ映画のスクリーンを見ているようだった。

世間から取り残され、一人雑踏の中に立ちすくんでいるようで、最後の審判を待っているような感じがした。

それでもいくつか鮮明に記憶に残っている出来事がある。

取引き先のA社とA理工の破綻を知った直後、私が独立する前に働いていた出版社の会長に電話を入れた。

ほぼ一カ月前、会長の紹介と保証によって、信用組合からの借入れをおこなったばかりだったのだ。

まだ一回目の返済もおこなっていない。

「すみません。不渡りを出すことになってしまいました。申し訳ありません」。

他に何を説明したのか覚えていない。

「仕事は続けたいの?」

「可能なら続けたいと思っています。そうでないとほとんど返せません」

「事業の継続が出来るかどうかは、債権者の中で中心になる人がいるかどうかですよ」

最後にこのような会話があったのを、かすかに覚えている。

手形決済日まで後四日しかない。決済はまず不可能なので、何はともあれ取引き先へ謝罪に回り始めた。


取引き先では一様に驚かれたが、そのうちの一社、印刷をお願いしている印刷会社へ出向いた時のことである。

そこそこの規模の会社なので、いつもはせいぜい課長さん程度にしか会ったことがない。

社長さんにお会いしたいというと、取引き先が挨拶に見えた程度に思われたのだろう、ニコニコして社長が現われた。

「実は、」と話を切り出すと、みるみる顔色が変わり、「あんた、何てことしてくれたんだ」と大声で一喝された。

他の役員も呼ばれて、その場で社長に一気にまくし立てられる仕儀になった。


「ウチは信用を第一にしている。取引き先から受け取った手形が不渡りになるということは、ウチの信用そのものが傷つけられたことになる」

これは取り返しの効かない問題なんだ、と言うのが社長の叱責の中味なのだ。

私はただただ小さくなって頭を下げるしかない。

ひと通りの話が終わってから、「あなたの釈明も聞きましょう」と矛先を向けられた。

経過を説明し始めてまもなく、「エッ、まだ不渡りを出していないの!」。

こちらの説明がしどろもどろだったせいで、不渡りを出したので謝りに来たと思ったらしい。

どうせ二日後に不渡りを出すのだから同じようなものだが、事前に報告に伺ったことで少しは気持ちが和らいだようだ。

他の役員を退席させて、親身になって話を聞いていただいた。

その場で前述の会長の「事業継続できるかどうかは債権者の中で中心になる人がいるかどうかだ」との話を報告すると、「そうですね、私も手を貸しますが、業界で知られている人のほうがいいですね」。

他にどのような債権者がいるのか尋ねられた。

ひと通り説明した中に、私の高石書房が利用している物流会社の社長を、老舗の有名な出版社の社長が兼務しておられるということがあった。

「あの人も苦労人だと聞いています。ぜひ相談したほうがいいですね。必要なら僕もいつでも動きます」と言っていただいた。

この社長もそうだが、倒産したおかげで、日頃はお目にかかることもほとんどない、各社の社長さんや役員さんに会う機会が、本当に山のように押し寄せてきた。



「辞めたほうがいい。再建するって大変なことなんだよ」

老舗の大手出版社の社長さんに会っていただいた時のことだ。

ほかの債権者のところもいくつか回った後だったので、すこしは冷静さも出てきていた。

同時に何としても事業継続を図り、再建したいという意欲も増していた。

「倒産した企業を立て直すなんて、いかに大変かは経験した者でなければわからないことです。悪いことは言わない。あきらめたほうがいいですよ」

「よほど有利な条件が整っていないと、再建なんて出来るものではないですよ」

大手の老舗出版社を立て直した人物だけに実感がこもっている。

「再建を断念して、まだ若いんだから、一からやり直したほうがいいですよ」

「負債を抱えて走ることは並大抵のことじゃないですよ」など、るる説得が続いた。

その日は経営者団体や作家さんたちの協会の会合など、予定がいろいろと入っていたそうだが、次々と予定をキャンセルしながら長時間にわたって話を聞いていただいた。

最後に、「わかりました。確かにあなたなら出来るかもしれない。どこまで協力出来るかわかりませんが、僕で出来ることならやりましょう」と言っていただいた。

その後、不渡りを出した後、二度にわたって債権者集会を開くことになるのだが、債権者集会のまとめ役として前述の印刷会社の社長や老舗の大手出版社の社長などに、まさに負んぶに抱っこで助けていただいたのだ。


商品の卸し先を確保することも大切で、出版物の問屋であるトーハン・日販といった出版取次にも、これらの社長さんたちにご足労いただくことになる。

これまたお供の顔触れが顔触れだけに、窓口担当者は大慌てで上司のところへすっ飛んでゆく。

すぐに役員応接室に案内してくれて、役員を始め、部課長が勢揃いとなる。

それぞれ高齢で貫禄のある人たちに挟まれて、小さくなって座っている自分の姿を思い出すたびに恥ずかしくなる。

最後の審判を待つような心境でもあったのだが。

しかしこのこと以降、老舗出版社の社長に最初に言っていただいたような、再建という難行苦行が始まった。

失敗もこの倒産事件を最後にしたかったが、また繰り返すことになる。

お世話になった人には申し訳ないが、出来の悪い子供は何度も失敗を繰り返し、何度も周りに迷惑をかけ、何度も叱られることによってしか成長しないようだ。



ハイエナ銀行とポカポカ信金

これも、不渡りを出す直前の話だ。

私の高石書房はメインバンクをA銀行にしていた。

合併して大きくなったA銀行の前身の銀行に、私の父親が長く勤めていた縁で、事業を始めた時から取引きをしていた。

A銀行の神田支店へ事前の報告に行った。

二日後に一度目の不渡りを出すと言った瞬間から行員の態度が一変した。

何度も打ち合わせをしているらしく、中座してはまた現われて、次々と上司を連れてくる。

そのたびに説明を繰り返すのだが一向にらちがあかない。

そのうちに、債権譲渡書なる文章を持ち出してきた。

『期限の利益』を喪失したので、高石書房の売掛け債権を借入れ金弁済に充当するために譲渡しろと言うのだ。

ほかにも債権者がいるのに、そんなことは出来ない。

ましてA銀行からの借入れ残の一億数千万円のほとんどに保証協会の保証や両親の家の担保が付いている。

A銀行の実害は私の連鎖倒産先の不渡手形買戻し分などを合わせても数百万円にも満たない。

第一、まだ不渡りは出していない。

期限の利益の喪失はこれからのことなのだ。

印鑑はすべて持ってはいたが、これだけは絶対出来ない、他の債権者に言い訳が出来ないと言い張った。

時間は刻々と過ぎていく。

他にも説明に回らなければならない債権者もある。

「社長のお父さんは、私どもの先輩ですよね。事業を再開するときには協力しますよ」

言葉は優しいが、ともかく判を押せの一点張りである。

私は、印鑑をテーブルの上に置き、「勝手に押すのはあなた方の自由です。でも私は、駄目だと言うのに銀行の方が勝手に押したと主張しますよ」と開き直った。

どれほどの時間が過ぎたのだろうか、六時間以上が経過し、すでに午後の十一時を過ぎている。

いつでも席を立つことは出来たのだが、態のいい軟禁状態で時間だけが過ぎていく。

先方もさすがにこれではマズイと思ったのだろう。

「それでは後日、改めてご相談しましょう」との一言で話は終わった。


行員もほとんど退社している。とぼとぼと最寄りの駅まで歩いて行き、電車に乗ったところで、きょうA銀行で、たしか『次席』とか言う名刺をもらった行員に出くわした。

「社長、大変ですね」「私の立場では言えないですが、あれで良かったんですよ」「頑張ってください」と言葉をかけながら途中の駅で降りて行った。

彼らも大変なのだとは思ったが、都市銀行がこれほど冷徹なものとは、今さらながら思い知らされた。

しかし、このことがあったおかげで、今後の処置の仕方も腹が定まった。

もし解散・整理となっても配当などほとんどない。

せめて公平に取り扱うことで債権者に納得してもらうしかないと思った。


同じ頃、サブメインの金融機関として使っていたK信用金庫飯田橋支店に出向いた。

支店長に報告をして謝罪したが、支店長は不渡りを回避するために、つなぎの緊急融資を考えてみると言う。

ハイエナのように思えた都市銀行の対応とはまるで違っていた。

しかし、取引き先の倒産によって数千万円もの不渡手形を抱えさせられては、ちょっとやそっとの融資では、いずれ破綻することは目に見えている。

債務がいくらあるのか、この時になって改めて見直してみると、手形割引きをお願いしていたために、K信用金庫への残債は、割引きをしてもらったA社の不渡り手形の買い戻し分を含めると、プロパーで五千万円近くあった。

せいぜい何百万円かのプロパー貸付けの残債で大騒ぎしてくる都市銀行と比べて、あまりの対応の違いに驚かされた。

不渡りを出した当日も、「大丈夫ですか。頑張ってくださいよ」とO次長が激励に来てくれた。

信用金庫の債務処理の手続きもあって、その後の処理は裁判所へ持ち込まれたが、和解の話し合いの時に、また新たな出会いがあった。


K信用金庫の本部へ出向いた時のことだ。

信用金庫の本部の事務所はオートロックになっている。

貸付け担当の理事さんのところへ訪ねて行ったのだが、間違えて理事長室のボタンを押してしまった。

インターフォンに出た女の人に来意を告げると、「どうぞ」との返事が返ってきた。

その時になって間違いに気づいたが、事の成り行き上、間違えましたとは言えない。

一言挨拶して引き上げようとエレベーターに乗り込んだ。

理事長さんにお目にかかって、お詫びと状況報告をしたのだが、ちょっと待ちなさいと貸付け担当の理事さんもその場に呼ばれた。

準備してきた返済予定表を示し、返済計画の話になった時、ちょっと返済金額が多過ぎるんじゃないかと言われた。

「いいえ、延滞金は入れてませんが通常金利で計算するとこのようになります。多額のご迷惑をおかけして申し訳ありません」

「あなた金利も払う積もりで計算しているのですか?」

「こちらも計算上は金利も計上しますが、いずれ元本がなくなった段階で相談しましょう。利息分の放棄も検討しますよ」

と言っていただいた。

その時に一緒におられた貸付け担当の理事さんが今では理事長になられ、倒産前に「緊急融資を考えましょう」と言っていただいた飯田橋支店の支店長さんは、融資担当の理事になられた。


さらに、第一回の債権者集会を終えた直後の話だ。

前述のK信用金庫飯田橋支店のO次長が、「社長、疲れてるみたいだよ。一度家族で温泉へでも行って、のんびりしてきたら」と言い出した。

「そんな金ないよ」と応えると、しばらくして、「ウチの信金の箱根の保養所を取っといたから、ぜひ行ってくださいよ」と言ってきた

女房も疲れがピークに達しているみたいだったので、好意に甘えることにした。

息子まで連れて出かけたが、自分で仕事を始めてから初の家族揃っての温泉旅行だった。

まして倒産して、それも迷惑をかけた先の保養所に泊まる。

こんなに甘えていていいんだろうかとも思ったが、ここまでみんなが心配してくれているんだと心底嬉しかった。

その後もK信用金庫には迷惑のかけっぱなしではある。

再建資金として、倒産の一年後に一千万円の迂回融資をしてもらったことがあり、このことでK信用金庫が監督官庁から不正融資として追及されたとも聞いた。

※ この原稿を書いている最中に、K信用金庫が救済合併されるというニュースが飛び込んできた。

多額の不良債権を抱えていると言う。

私が世話になった方々がどのような処遇になるのか案じられてならない。

北海道拓殖銀行の破綻から始まって銀行の整理淘汰が進んでいるようだ。

規模が大きくなるに従って、前述のA銀行のようになっていくのではないだろうか。

銀行員だった父も、「もう、昔のような銀行は残れないな」と嘆いている。



『大リーガー』がやって来た

昔、ヤクルトスワローズにレオン・リーとボブ・ホーナーという選手がいたことを覚えているだろうか。

ホーナーは、一九八七年に来日してすぐに派手なホームランを連発して一世を風靡したが、わずかの期間だけでアメリカへ帰ってしまった。

ホームシックが原因らしい。

レオンはロッテから太洋、ヤクルトへと移籍した選手で、ヤクルトではあまりパッとはしなかったが、それでも兄貴のレノン・リーとともに日本で長く活躍していた。

倒産直後、レオンから「日本に来ているので会いたい」という連絡が入った。

レオンは引退した後、アメリカへ帰ってからも日本で知り合ったホーナーと付き合っていた。

ヤクルト時代、まったく日本語が出来ないホーナーは、片言とはいえ日本語が話せるレオンの後をつきまとっていたそうだ。

そのことが縁で、二人に交友が芽生え、アメリカへ帰ってからも公私ともども付き合っていたという。

その二人が組んで、『大リーガー』を紹介する雑誌を作りたい旨の依頼を、倒産の一年ほど前に受けていた。

野茂英雄が渡米してからは、日本でも大リーガーの試合が放映されるようになったが、今から八年ほど前(1991年のことです)では、その前兆もなく、野球オタクを相手の細々とした出版物しか考えられなかった。

それでも仲介に立ってくれたY君の熱意にもほだされて、会ってみるとレオンの人柄の良さも十分感じられたので、「どこまでやれるかわからないが、ともかくやってみましょう」と引き受けた。

大リーガーの紹介記事は、レオンやホーナーが手分けして集める。

日本語版にするからには日本の著名な野球関係者に登場してもらおうと、高石書房では独自に長嶋さんや、王さん、落合さんに目星をつけて取材に走った。

余談だが、長嶋さんも、王さんも、落合さんも、こころよくインタビューに応じてくれた。

取材費も出せないというのに、長嶋さんは、「大リーガーを紹介することは、日本の野球界にとっても大変有意義なことだ」と二つ返事で引き受けてくれた。

王さんも、「『少年キャンプ』のことを取り上げてもらえるのならノーギャラでいいですよ」と引き受けてくれた。

長嶋さんのところへ取材に行かせたスタッフは、みんながみんな、顔を紅潮させて戻ってきた。

「あんな凄い人には初めて会った」と口を揃えていう。

「創刊の折には、読者プレゼントに私のサインボールを提供しますよ」とまで言ってもらったそうで、あまり野球に興味のなかった編集部長のHさんまでもが、まるで子供みたいに興奮している。

長嶋さん、王さんのインタビューを終えて、テープ起こしが始まった。

経費削減のために私の姪っ子たちに依頼したのだが、しばらくして姪っ子から泣きが入った。

王さんのインタビューは、会話をそのままに書き起こしても十分使えそうだが、長嶋さんのインタビューは主語と述語がゴチャゴチャで文章にならないという。

ともかく、そのままテープを起こすだけでいいからとは言ったものの、出来あがった原稿を見て、これは日本語に程遠いと頭を抱えてしまった。

結果的には本にならなかったのだが、この原稿を文章にするにはどうすればいいかと思い悩んだ。

落合さんの自宅へもアポをとって伺わせてもらったのだが、事前の話に食い違いがあったために、当時所属していた球団との微妙な関係もあり、雑談だけでスタッフは引き上げてきた。

このような準備をしている最中に、倒産劇の幕が開いてしまった。

当然、雑誌創刊は見送らざるを得ない。

レオンとは正式の契約書を交わしている。

発売中止の場合の項を改めて翻訳させてみると、多額のペナルティーを払わなければならない。

当時レオンが不動産投機に失敗して、金銭的に困っていることも聞いていた。

レオンは彼の定宿、赤坂のキャッスルホテルのレストランにいた。

顔見知りなのだろう、ボーイとジョークを交わしている。

テーブルの上には、大皿に盛ったライスだけがドンと置かれている。

再会の挨拶を交わして席に着くと、「チョット、失礼」と言いながら、ライスにソースをたっぷりかけてパクつき始めた。

高石書房の状況を説明して、ペナルティーについてはすぐには払えないと申し入れた。

いくつかの質問や応答が交わされた後、レオンが、「気ニシナイデイイ。高石サント僕ハ、友達ダ」と言い出した。

仲介者のY君の人柄のおかげだろう。

「ソンナコトヨリ、頑張ッテクダサイ、軌道ニ乗ッタラ、ゼヒヤリマショウ」

そのあとは、お互いの息子の自慢話になった。

レオンの息子もハイスクールで野球をやっているという。息子の話になると目許もほころんでくる。

「私の息子だって、高校で野球をやっている。レギュラーだ」と言うと、「ソレハ、スゴイ」と応えてくる。

その後、レオンの息子は大リーガーへドラフト上位で入団したと聞いた。

私の息子とは、チョットだけ違ったようだ。

レオンは日本での滞在期間が長かったので、日本的になっていたのかもしれない。

でも私は、契約社会のアメリカでも、気持ちは通じるものだと思っている。

ただし、こちらの主張をハッキリと伝えて、お互いの意見をぶつけ合った後のことだが。

最後の別かれの握手の、私の二倍もありそうな、分厚いレオンの手の温かみを今でも思い出すことが出来る。

※ 数年たって、レオンはオリックスの監督になって戻ってきた。

会いたい気持ちもあるが、今はまだ出向けない。本当に彼は、日本が好きなんだ。



そして両親は、都会へ島流しになった

債権者集会も終えて、一応再建へ向けて歩み出した後のことである。

東京都信用保証協会からA銀行の代理弁済をおこなった旨と、出頭するようにとの通知があった。

指定された日に出向くと、当然のように『期限の利益』を失ったのだから一括で返済して欲しいとの話だった。

そのような契約になっていると言う。

冗談じゃねえ。それが出来るくらいならば倒産しない。

今後どのようにするかは債権者集会で決めたいと言うと、出来ないなら抵当に入っている私の両親の大阪の家を競売にかけると脅された。

「払わないとは言ってない。待ってくれと言ってるんだ」

「だいたい話が逆じゃないですか、あんたんとこには担保も入っている。たとえ全額に満たないまでも保証を取っている。業者さんなど他の債権者のところは担保も何も入ってないんだ」

「まして業者さんたちは私企業だ。私のために倒産するかも知れないんだよ。保証協会が経営危機に陥ったなんて話は聞いたことがない」

「まず業者さんたちへの支払いと恩借分を先に返済するのがスジだと思う」

と言い張って帰って来た。


その後も私なりのスジの通し方で保証協会への返済を遅らしたものだから、三年後には年老いた両親の家も競売にかけられ人手に渡ってしまった。

話は前後するが倒産の一年前、大阪の中央区というところにワンルームマンションを買っていた。

両親も年老いてくると息子は一人しかいないだけに、近くにいて欲しい。

東京から離れられないのなら、せめて支店でも大阪にあれば頻繁に帰ってくるだろうとの願いがあったのだろう。

大阪に事務所を設けるなら自宅を担保提供しようと迫られた。

事業拡大に伴う資金繰りにバタバタになっていた時でもあり、西日本の営業を軌道に乗せるためにも必要だろうとの判断もあって、この話に乗った。

大阪で賃貸の事務所を探したが、何しろ大阪というところは、入居前の権利金が東京の倍以上する。

探しあぐねている時に、前述のA銀行の船場支店から話が持ち込まれた。

ワンルームマンションだが、場所的にも最適のところにあるので買わないかと言う。

買うのなら全額融資しましょうとの申し出があった。

さんざん悩んだが、それならばとこの話に飛びついた。

ところが土壇場になって全額は融資できない、一部を融資するがそれも私の父親名義でないと駄目だと言う。

この野郎とは思ったが、すでに仮契約も済ませて、走り始めたあとである。

不足分は東京で新たに短期借入れを立てざるを得なかった。

このことが苦しかった高石書房の資金繰りをさらに圧迫することになった。


大阪の郊外にあった両親の家が落札されて、立ち退きが近づいてきた。

関西で生まれ育った両親にとって、いくら息子がいるといっても、東京は恐いところと思っている。

二部屋ぐらいのアパートかマンションでも借りようと手を尽くすのだが、年寄り二人となるとどこも貸してはくれない。

途方に暮れてしまった。

母親が「大阪の事務所が空いているなら、そこでもええよ」と言い出した。

父親名義になっていて、バブルの崩壊以降大幅に評価が下がったものだから、A銀行も処理に困っていた。

毎月の返済分さえ払っていれば、何とか住んでいられそうだ。「私が働いて、その分ぐらいは何とかするよ」と母親が言い張った。言うだけでなく、すぐに7箇所もの掃除のアルバイトを引き受けてきた。

結局、両親は大阪のコンクリートジャングルのど真ん中の、陽の当らないワンルームだけの事務所に、今も住んでいる。

親父もすでに八十五歳を過ぎた。

だんだん足も弱ってきて外出もままならなくなってきた。

せめて狭くてもいいから、太陽の差し込む部屋に移してやりたいと思うが、いまだにそれも出来ていない。



第一章後半へとつづく

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