『北の国から』~文明と文化
ドラマの中で、猛吹雪によって電線が切断されて街中が停電になるシーンがある。ごく普通の近代的な石油ファンヒーターはまったく働かなくなって、家中が極寒に襲われる。ポンプで水を汲み上げていた家もまったくお手上げになる。そんな中で、町外れの荒野にある黒板家はもともと電気がなくランプ生活で、しかも水は谷川から直にパイプで引いているから停電になってもまったく支障がでない。そんな不思議な光景を目にした少年の純は、おそらく、この時文明の脆さというものと、父親が自分たちに教えておきたかったライフスタイルの真意の片鱗を悟ったのではないか、と思う。また、猛吹雪の中で、叔母雪子の運転する車が吹き溜りに突っ込んで、純もろとも凍死の危険に晒される。その時、父親はジープですら捜索の役に立たないことを悟り、馬ソリを借りて、二人を見つけだす。馬が、雪に埋まった車の前で人の気配を感じてピタリと止まったのだった。突然の自然の猛威の前に我われは時に、命の危険に晒されたり実際に命を落とすことさえある、ということをスマトラ沖大津波の大災害で知っている。それは何の容赦もなく我われを死に至らしめることがあるのだ。純と雪子の生還は、地元の人間をして「奇跡だ」と言われる。それは、父親の咄嗟の機転と馬という動物の本能の働きが奏効した結果であり、両者の動物的な「勘」が見事にうまくいった奇跡であった。だが、その奇跡も、それまでの父親の一貫した「安易に文明に頼らない」「不自由を行とする」というライフスタイルの延長上に蓋然的に導かれたアイディアの勝利ともいえよう。父親の五郎は、子どもの担任教師を前に自らの学のなさを披瀝するが、彼の嘆く「浅学」とは知識レベルのものであり、彼は知恵のレベルにおいては「博学」そのものといえるだろう。きょう日のインテリが失った「生きる知恵」というものをこの浅学な父親は誰よりもしっかりと「血の教養」として身に付けている。「魂の文化」に通じていると言ってもいいかも知れない。父親は都会育ちで勉学優秀な我が子よりも「火を付けて、灯す」ことにおいては優秀であり、谷川の水を創意と工夫で我が家に通し「水を扱う」ことにおいても息子に優っている。純は、自然と「キレて」いない父親をみておそらく健全な男性モデル、父性モデルを獲得していったであろうことが容易に想像がつく。今日、物質文明の発展が急激なあまり我われは精神文化というものがそれに追いついていけないのが現状だ。だから、悲惨な事件・事故が起こるといってもいいだろう。☆☆☆(・(エ)・) .