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2008年05月11日
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カテゴリ:田中清玄

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リュシコフ大将に捧げるレクイエム  中田光男(勝野金政氏参謀本部時代の同僚)
私には終生忘れることができない三人の巨人がいる。矢部忠太(参謀本部十一班長、
最後のソ連駐在武官少将)、リュシコフ大将(ソ連極東地方ゲペウ長官、日本へ亡命)、村井順(初代内閣調査室長、綜合警備保障社長)。
三 人とは声咳に接し、公私に亘り指導を受けたが、特にリュシコフ大将とは、戦乱下、再会を約し楽しみにしていたが、可惜四十二才の春秋を日本軍により射殺さ れた非業の死は、私のみならず今日の難局の日本にとっても惜しみて余りある巨人であった。今、勝野金政氏の生誕100 年記念に、親交のあったリュシコフ大将へのレクイエムを捧げることは奇縁といわねばならない。
(1 )リュシコフとの出会い
一九四一年 春、先輩の紹介で参謀本部に矢部中佐を訪ね、彼の人格に圧倒され(人生意気に感じ)奉職した。最初の仕事は宛名の判らない手紙をロシア語で書くことで、内 容は「貴君の生命財産は陸軍が保障する。今後貴君には自由な生活ができるように計う。毎月充分の生活費を保障する」というものであった。宛名の判らぬ手紙 は書きにくかっ
たが、ロシア語で何とかまとめた。
翌日、日本へ亡命した外蒙軍のダンザン・ローダン(作戦部長少将)に引き合わされ
た。半年間、国内を巡り彼に日本の実情を認識させる様教育せよという命令であった。
学校を卒業したばかりの私には難問であった。以後、三ケ月間、全国の施設視察と観光
に費やしたが、スターリン体制下、外蒙独立を策した志士も、脱出時の落馬が原因のカ
リエスとなり、九月、内蒙軍に送って行き、帰路ハルビンのソ連亡命者収容所(保護院)
で、調査する機会を持った時の経験は役に立った。
十月帰国するや、矢部部長から又、亡命者を托された。ゲンリッヒ・サモイロビッチ・
リュシコフ三等大将である。神楽坂を登り切った右手に赤城神社があり、社の森の北側
に豪壮な邸宅に憲兵詰所があった。その一室に住んでいた。いわば警備を名とする軟禁
状 態におかれていた。私は三年前新聞で大きく報道されていた亡命したリュシコフの印象が残っていた から直ぐ旧知の如く打ちとけることができた。彼は‘38 年 6 月、満ソ国境を突破、日本に保護を求めて亡命したソ連ゲペウの極東地方長官・三等大将であった。話をしているうちに、半年前宛名のない手紙は彼に宛てたも のと気付いた。彼は手紙のロシア語の表現を褒めてくれ、矢部中佐の恩義に感謝した、人物を知るのは人物だと思った。(2 )ソ連事情講述間もなく神楽坂の寓居から目黒区碑文谷公園傍の借家に移った。同時に樋口みよ が家婦として世話することになった。私は連絡係として隔日に 彼のもとに通いソ連事情を親しく教えられた。この二年間はソ連を知る絶好の機会となった。話は政治、経済、社会、文化、芸術、生活、情報政策、粛清等など 全般に及んだ。神楽坂時代既に四つの論文で、スターリン体制を痛烈に批判し、「改造」誌上に発表していたが、私への講述を開始する、「ソ連共産党批判、」 の執筆を始めた。当時はスターリンも執筆した「ソ連共産党小史」‘38 年刊が、国民の書として強制されていたことに反駁したもので、共産党の虚妄を砕することを意図した壮大な作業であった。(彼はワラ半紙を半折し裏表四面に 書き込んだが、’46 年春渡満時、新潟の空襲で惜しくも焼失した)
独ソ戦が開戦すると、彼は毎日短波放送で戦況を聞き参謀本部に電話で報告して来た。
この担当を高谷が当った。私への講述は引続き継続され私は「情報」の重要性をいやという程叩きこまれたリュシコフは情報とは「予想の科学」であるといい、情報の読み方、考え方、判断を繰り返し教えた。又ある時「ソ連文学の動向」という文学論の翻訳を頼れた
が、文学に素養のない私には難解だったことを思い出す。
‘42 年戦局は酷しく敗報が相次いだ。一口坂の九段事務所も臨戦態勢となり、リシュ
コフも毎週水曜日に来て会議を開いた。高野覚蔵、勝野金政、馬場秀夫(毎日新聞外報部)、吉村按里(ニコライ堂総主教)、原書一郎(コロンビアレコード宣伝部長)、岡田桑三(松竹俳優、東方社社長)と私。情勢分析に続き戦場宣伝の媒体を検討した。その後
いつだったか高谷は元ソ連共産党員ということでハルビン特務機関に移り、後任として勝
野氏が会議を主宰した。一口坂の老舗らしい鰻やの弁当を食べながらの雑談は、皆ソ連体者だったから、その思い出話になった。リュシコフと高谷の談は、コルホーズ強行に反対した村民を並ばせ
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彼が話すときは回転椅子にかけ片足の靴を脱ぎ他方を膝の下に入れ、常に笑顔を絶やさず、
鼻をクンクンさせながら手の甲で鼻の辺りを擦っていたのが印象的であった。
私は陸軍で謂う情報が、宣伝、謀略、諜報を含む心理戦で、参謀本部十一班は武力に依ら
ないで敵を屈服する孫子の兵法を範とする心理戦の体系化を構想していたから、この会議で論議は大いに役立った。

(3)餞別の言葉
‘43年10月に私の入隊が決まった。一夜、リュシコフが神楽坂の料亭で送別会を開い
てくれた。彼はシンミリと「この戦争は敗戦必至だ、だが、君は死んではならない。死んだ
ら犬死だ。君に話したソ連革命を思い出して欲しい。“敗戦を革命へ’’と考えたレーニンの
所謂“二段革命論”だ。革命は日本の敗戦後に迫っている。その時こそ存分の働きをして欲
しい」と言った。
‘45年8月、終戦直後のハルビンで脱出を決意できたのも、このリュシコフの教えに従
っただけで、私には何の躊曙もなかった。関東軍将兵60万は為すところもなくシベリアに
送られ、十年の歳月を抑留されたのである。リュシコフから教示されたソ連の実相は、私の
一命を救い、その後も「ソ連を知りすぎた男」として追及を招いたのは何とも皮肉であった。
(4)リュシコフ暗殺命令
‘45年2月、関東軍司令部からハルビン特務機関の諜報班長へ作戦命令で転属した。任
務はソ連の開戦時期の測定であった。これが最後の仕事と覚悟し、思い残すことなく潔く死
のうと思った。測定方法として四つの方策を考え出し、部下を督励した。期限は6月初めで
ある。
その頃リュシコフから葉書が来た。ノひらがなの文面には間もなくハルビンに行き、一緒に
仕事をするのを楽しみにしていると書かれてあった。私も再会を楽しみにしていたが、それ
は遂に叶わなかった。
ソ連侵攻の時期を九月と結論し関東軍司令部に上申したが、現実は広島、長崎に原爆が投
下され−ケ月早くソ連は侵攻してきた。鉄壁を誇った関東軍は各地で敗走した。私には開戦
と共に満州内異民族の動向を司令部電話する任務が与えられた。電話ボックスから見る参謀
達の醜態に情然とした。西方面の白城子辺の砲声に怖気づき、酒で恐怖を紛らさせている醜
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態であった。
開戦二日目、夕刻山下参謀長に呼ばれた。「リュシコフ大将を暗殺せよ、直ちに大連
に赴き、大連特務機関長と連絡し実行せよ」との命令であった。−一瞬考えて「私には
できません。公私混同かもしれませんが・・。なぜ殺さなければならないのですか」「参
謀本部からの命令だ」 「陸軍は彼に大恩があります。私にはできません」 押し問答
が続いた。室に戻り考えた。命令は絶対である、しかし・・・。
夕食時、高谷覚蔵を官舎に訪ねた。この話をするや「それを俺にやらせてくれ。一緒
に山下参謀のところに行って高谷にやらせてくれ」と懇願された。思えば彼はソ連の裏
切 者である。ソ連に捕まれば縛り首を免れまい。高谷は迫る危機を暗殺に賭け、成功したらと七十万円と飛行機を要求した。後日、彼に確認したら暗殺は勿論でき るわけがない、奉天で時間をつぶしてハルビンに引き返したとのことで、終戦の混乱に紛れた詐術であった。大連のリュシコフはというと、ハルビンから誰も現 れなかったので、特務機関の竹岡大尉が宿舎のヤマトホテルから呼び出し、拳銃を前に自決を迫ったが拒否された。今はこれまでと階段を降りる背後から発砲し たとのことである。歴史にIFは許されないが、私に知恵が働き、上海の租界(バンド)に逃避したら、時代も変わり、リュシコフも晩節を全うすることができ たにであろうにと思い、この知性の巨人を救けつことができなかった不明を恥るばかりである。冥福を祈る。

『情報将校の回想』(未完)を抜粋しました。






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最終更新日  2008年05月11日 09時40分57秒
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 Re:田中清玄 自伝では語られなかったこと8(05/11)   くれど さん
清玄の知り合いの高谷覚蔵の噺ですが 彼は この大将閣下の片腕だった時代もあり そういう能力を買われて
参謀本部第二部に所属していた時期もありました。
このボスが 有末精一中将です。 (2008年05月11日 09時44分06秒)

 『情報将校の回想』   清玄ファン さん
『情報将校の回想』を読んでみたいのですが、どこで手に入りますか? (2010年01月11日 02時44分44秒)

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