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2010年01月13日
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カテゴリ:カテゴリ未分類
http://www2.hannan-u.ac.jp/lib/material/recommended/recommend_0812.html

 このほど刊行された『上海日記』は、故堀田善衞宅で遺族により発見された二冊のノート(2007年夏)と、堀田善衞歿後十年の回顧展(2008年10月~11月、神奈川近代文学館。図録の表紙は、

集英社刊 2008年11月
スタジオジブリが描く乱世。
堀田善衞展 展覧会図録
スタジオジブリの描く無国籍の木造戦艦で飾られている。宮崎駿は堀田と深くながい交流をもった)の準備中に、文学館に寄贈された「堀田善衞文庫」の蔵書・資料の中から発見されたもう一冊のノート(2008年6月)とから成り、「滬上[こじょう]天下」(堀田自身のことば。滬[こ]は上海の古称)のただなかで、1945年8月6日から46年11月29日までに書き継がれた思索の記録である。戦中秩序の錯乱と?倒[てんとう]によって自身をもふくめた生活者たちに生じた人心の壊乱[かいらん]と彷徨[ほうこう]と悲哀を繊細に感受しつつ、乱世に生きる単独者の思考をいかに紡いでいたか――この『上海日記』は、「上海客死」を覚悟した27歳の若き堀田善衞の、憂愁と愛と游魂[ゆうこん]にいろどられた青春の遺譜[いふ]というべきものだ。
 胸部疾患により召集解除になった堀田は1945年3月10日の東京大空襲に遭遇しその悲惨を目撃した。酸鼻[さんび]をきわめる焼け野原を視察する天皇裕仁の「異様な儀式」と「現人神」に平伏する<日本人>の「憂情[ゆうじょう]」とに絶望し、この不可思議な「重い疑問」をつきつけられた堀田はやがて敗戦必至とみえた日本を“棄て”上海経由でヨーロッパに渡ろうと試みる。だが、日本軍が支配する異郷の「滬上[こじょう]天下」は、英・仏・米の帝国主義による植民地支配が深刻な爪跡を残し、ヨーロッパとアジアとが切り結び陰謀渦巻く魑魅魍魎[ちみもうりょう]の国際都市でもあった。亡命ロシア人やユダヤ人、インド、東南アジア、南米からの流れ者、さらに南京・重慶・延安にそれぞれ拠点をもつ複数の異なった政治権力(蒋介石[しょうかいせき]派や毛沢東派など)がひそかに放つ地下工作員や特務機関、スパイ、テロリスト、労働者、苦力[クーリー]、やくざなど、さらにそれらにくわえ日本の軍関係者や民間の邦人のうち、戦争遂行徹底派、闇のパイプをもち巨額の金銭を駆使する和平工作派、利権を漁る軍属や商人や投機屋など異様なる者どもが暗躍し、有象無象の多数の人々が入り乱れ混在する巨大な魔都――それが上海であった。この異貌[いぼう]の卑猥なる魔界ではだれもが複数の顔をもっていても不思議ではなかっただろう。
 こういう猥雑[わいざつ]で秩序なき上海で堀田は、中日友好協会の武田泰淳と親しく接し、多くを得ている。8月11日に日本の敗戦を号外が伝えると、武田は「日本民族は消滅するかも知れぬ」と語り、堀田は「中国人のうつりかわり」を「人の心の内面の問題」として考え抜こうとしている。だから堀田は「いまーのーとき」(W.ベンヤミン)の現場を自分の眼で確かめるべく「路上の人」を選ぶのだった。だが、いやそれだからこそなおさら敗戦国の日本人としての敗残の悲哀は深まるばかりだ。
  
   われらの生は 孤独の深みでなんと広いのだろう
                      ――堀田善衞詩集

 「滬上[こじょう]天下」には特務機関たる名取機関(名取洋之助)や水谷機関(水谷文一。児玉誉士夫の仲間)が跳梁跋扈[ちょうりょうばっこ]し、堀田もそれらと一定の関係を持ったらしいが(『日記』には名取洋之助の名が出てくるだけだが)、虹口[ホンキュウ]や外灘[バンド]を歩き回り、出来の悪い映画を観ては、安酒場で酒を呷る堀田は、ともに既婚者たる禁断の恋(名取機関に関係していたNとの恋、のちの堀田夫人)をことばを絞り上げるように切々と綴っている。そのころ「世界は終わりに近づく」というヴァレリーの詩句が堀田をとらえていたにちがいない。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E5%8F%96%E6%B4%8B%E4%B9%8B%E5%8A%A9
名取洋之助
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
名取 洋之助(なとり ようのすけ、1910年9月3日 - 1962年11月23日)は、戦前から戦後にかけて、日本を代表する写真家、編集者。実業家名取和作の子。母方の祖父は三井財閥の大番頭朝吹英二。
目次
1 生涯
2 名取洋之助写真賞について
3 著書
4 写真集
5 主要展覧会
6 主要文献
7 関連項目
8 外部リンク
[編集]生涯
東京に生まれ、慶應義塾普通部に学ぶも、成績不良で予科に進めず、18歳でドイツに渡る。ベルリン遊学中、国立美術工芸学校のウェイヒ教授を通じてバウハウスのデザイン思想を知る。教授の地元ミュンヘンの美術工芸学校に入り、やがて教授が経営する手織物工場のデザイナーとして働くうちに9歳上のドイツ人女性エルナ・メクレンブルク(のち妻となる)と同棲。エルナが撮った火災現場写真を洋之助が組写真にして写真週刊誌に持ち込んだところ高値で採用され、そのことが機となってベルリンの総合出版社ウルシュタイン社に認められ、ヨーロッパ最大の週刊グラフ誌の契約写真家となり、その身分のまま帰国。
戦前は、1933年に木村伊兵衛、原弘、伊奈信男、岡田桑三らとともに日本工房を設立し(翌年、名取との意見の対立により、木村、原、伊奈、岡田が脱退し、日本工房は事実上崩壊。太田英茂らの参加を受け、改組されて第2次日本工房となる)、1934年には、対外宣伝誌『NIPPON』を創刊。土門拳、藤本四八などの写真家、山名文夫、河野鷹思、亀倉雄策などのグラフィックデザイナーを用いつつ、従来の日本のレベルをはるかに超えた内容の誌面を提供しつづけた。

http://yaplog.jp/tangguohao/archive/64


名取洋之助は戦前のドイツで腕を磨いた写真家で、帰国後日本のメディアのレベルがあまりに低いことを知り、「日本工房」を設立、対外宣伝グラフ誌の「NIPPON」を創刊し、報道写真とグラフィック・デザインの先駆となりました。土門拳もここで写真家としてのスタートを切っており、クオリティの高い誌面は今みてもうっとりするほど美しいのです。かれはのち上海に拠点をうつし、外国向け写真配信社を設立、同様のグラフ誌「Shanghai」、「Kanton」をつくりました。中国には骨をうずめる覚悟で出向いたようですが終戦後戦犯指定され、やむなく帰国しています。
岩波文庫は彼の最晩年の仕事と言えるでしょうが、庶民の生活のほんのひとコマを切り取ったカットの数々からは、報道写真家・名取洋之助の「写真は芸術ではない。物を考えるための記号・象徴である」というポリシーが健在であったことを強く感じました。

 南京路からバントを望むカット。左に和平飯店北楼、右に南楼が見える。
河の向こうは当然荒野の時代。



ロレックスの自動巻が25石で795元。文房具屋の店先にはパーカー、シェファーという文字も見え、共産中国にぜいたく品?というこちらのお堅い先入観をみごとに打ち壊してくれる秀逸なカット。



私はむしろ名取洋之助という名前に反応してこの本を買ってしまったのですが、それは父方の叔父がこの日本工房におり、上海支局に一時在籍してたこと、戦犯指定されて中国を去った名取が、新中国政府の招聘で取材に出かけていたという意外性からでした(岩波と新中国のつながりの強さを考えると、写真家が誰なのかということは些末な問題なのかもしれませんが)。

叔父に聞く上海はまさに小説や紀行文に出てくるような様子で、はじめての上海を「漢口から夜に着いて、黄包車(人力車)の車夫に『どこでもいいから旅館に行け』と言ったんだ。どこをどう走ったか、どの旅館に泊まったのかは全く覚えてないんだけど、翌朝目が覚めたら隣に中国女が寝てたことだけは覚えてるなあ」と笑い、「中国服がとてもよく似合う、中国語がペラペラの美人」(叔母ではない)との同棲生活を「彼女と一緒に昼ころに起きてさ、橋(ガーデン・ブリッジ)を渡って南京路のジミーズ・キッチンか五馬路の安い飯屋で昼飯を食べて、そのあとはウィンドーショッピングに古着屋めぐり。気が向いたら編集部に行って仕事をするんだ」と、遠い目をして懐かしむのでありました。

叔父の記憶が確かなうちに当時の話を聞いておきたいと思い、数年前、隠居先の長野の山奥を訪ねたことがありました。
本人記憶は定かながら、上に書いたような生活をしていたもんですから姪には話しにくいことも多々あるらしく、時折言葉を濁らせつつもぽつぽつと上海生活を語り、話題は日本工房のグラフ誌に及びました。「確か地下室にしまったんじゃないかなあ」という言葉をアテに本の山をあさったところ、どうやって大陸から持ち帰っやら、湿気てすっかりカビ臭くなった「Shanghai」の1937年創刊号が、古いグラフ誌の束に紛れて出てきました。小さい頃叔父の家で英語もわからないまま、美しさに夢中でページをめくった「NIPPON」の誌面にとても似ています。

蒋介石政権の腐敗ぶりや汪兆銘政権の正当性を説く記事を英語がわからないから斜めにすっ飛ばしましたが、奥付の住所にたどり着いたところで目をむきました。

CHING CONG KAN,76 Jessfield, Shanghai
(意味がわからない方…ごめんなさい、ここで語ると長くなるんで、「特工総部」でぐぐってみてください)

興奮ぎみに「おじちゃんこれ一体どういうこと?」と詰め寄るも、「え?ボクはピアス・アパート(編集部は虹口のピアス・アパートにあった)しか知らないなあ。それ何なの?」と逆に聞かれる始末。間接的とはいえまさか身内がこの場所に関わっていたとはと、びっくり仰天の発見でありました。

叔父が「日本工房がおかしくなりはじめたのは、名取さんが日本軍とかかわり始めた頃からだった。でもあんな時代だったから、資金調達にはそれしか方法がなかったんだなあ」てな意味のことを言ってましたが、世界に通用するレベルの報道写真とグラフィックを目指した名取洋之助にしてみれば、果たしてこれは妥協レベルのものだったんでしょうか。

名取洋之助は1961年に亡くなっていますから、56年の中国取材は「死ぬまでにもう一度」という悲願の実現にも思えます。彼はファインダーを通して中国にどんな将来を感じたのか、淡々と切り取られた1枚1枚の写真からは思い入れにせよ諦観にせよ、撮影者の感情らしい感情はほとんど見えてこなくて、報道写真家の徹底したポリシーを感じるのみですが、政治や国家の思惑などとは関係なく、庶民の生活は永遠に動き続けているということは如実に感じられ、そこにまた名取洋之助の偏屈と美学を感じてしまうのでありました。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%8976%E5%8F%B7
ジェスフィールド76号
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジェスフィールド76号(極司非爾路76號)は、日中戦争下の上海で日本軍によって設立された対重慶特務工作機関。後に汪兆銘政権が樹立されると、正式な政府機関となり、国民党中央委員会特務委員会特工総部と称した。

ライカビルに 亜細亜産業がなぜ あったのかという背景のひとつではあります 特務機関とマスコミとの意外に知られていない点かもしれません





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最終更新日  2010年01月13日 17時39分33秒
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