|
カテゴリ:カテゴリ未分類
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=00749022&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA
旧生田川と求女塚物語明治四年生田川を現位置に変更することになり二月三十日大阪民部省出張所から吉井民部大烝が出張して三月十日から工事に着手して六月九日に竣工した、この工費三万六百七十二両三分永百十六匁を要した、これが近年遊歩道となり地下を暗橋して地表には生田川の下流はすがたをなくしてしまった古来この川は八部郡と莵原郡界であって今も北長狭通一丁目三十番地の隣に地蔵堂あり堂前に八部莵原両郡界生田川の石標が残っておりこれから少し上手にも路傍に存在している、なお一昨年までは布引への登り口久形橋畔に丈余のこの種石標があったが工事のために橋も標石もすがたを失った、生田川の旧川床は明治四年十月七日に入札によって四万千七百四十四坪七合を四千七百六十八円三十□也で紀州の有本明と神戸上組の加納宗七が払下を受けてここに加納町が出来ることになった、当時坪十銭也とは馬鹿々々しい気がするが加納氏はこの事業に損失して貧亡したと云うから余り安価ではなかったのか、 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E4%BA%95%E5%8F%8B%E5%AE%9F 吉井 友実(よしい ともざね、文政11年2月26日(1828年4月10日) - 明治24年(1891年)4月22日)は、日本の武士・薩摩藩士、官僚。正二位勲一等伯爵。通称を仁左衛門、中介、のち幸輔。変名を山科兵部。 1868年 徴士参与職・軍防事務局判事、軍務官判事、弾正大忠、弾正少弼 1870年 民部少輔兼大蔵少輔、民部大丞 1871年 宮内大丞、宮内少輔 1875年 元老院議官 1877年 一等侍補 1878年 元老院議官兼任 1879年 工部少輔兼任 1880年 工部大輔兼任 1882年 日本鉄道社長 1884年 宮内大輔 1885年 元老院議官兼任 1886年 宮内次官 1888年 枢密顧問官 1891年 宮内省御用掛 ここに出てくる 吉井の親分が大隈で とくれば三田藩のルートとくれば つながりは これも福沢センセイになります 加納が持たなかったのも 資金を借り入れでやったか 政治力不足の面があったのかなとおもうのですが なぜ三田藩グループが資金を調達できて これを横取りできたのかがわかりませんが 百姓から搾り取った金が原資ですかね お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
|
|