余多歩き

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2010年08月27日
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http://ameblo.jp/panqueque8/theme2-10006296526.html
かなりレアな写真です。
中央が岩田幸雄氏、グラサンの方が大化会の宮武実、左が石黒彦市(ぶったぐりの彦)だそうです。
この写真は、日本の親分グラフィティという昭和61年刊行された本に出ています。
残念ながら、この本はオークションか古本屋にしかありません。(相場は1,000~2,500円)

昭和17年に右翼団体である大化会は左の石黒彦市と対立していたといいますので、おそらく写真は対立が沈静化したあとのものでしょう。
又、石黒彦市は「人生劇場 飛車角」という任侠映画のモデルにもなっている有名な893のようです。
いまいち繋がりが見えませんが、大化会のトップは山口組系のようですし、裏の世界のワンショットに違いはないようです。

http://plaza.rakuten.co.jp/junksai/diary/201008190000/#comment
荒牧退助は、福岡県若松市出身で、昭和14年5月から右翼団体の大化会に
属している。(注:事件当時60歳)
大化界は児玉誉士夫の先輩の岩田富美夫らが創設した団体であろ。岩田は福岡の侠客・梅津高次郎と親交があり、梅津の長男・良平の舎弟だった宮武実も大化会
のメンバーだった。荒巻も宮武らの仲間であろう。

戦後、彼は福岡や佐賀に在住していたが、昭和32年には東京へ移転し、事件を
起こしたときにはアパートに妻と会社員の長男が同居していた。
若干の収入はあったろうが、生活状態は貧しかったらしい。

http://mimizun.com/log/2ch/history/1046951333/

345 :日本@名無史さん:03/03/24 20:36
村岡賢二は、尾崎士郎の「人生劇場」の飛車角のモデルとなった
石黒彦市と兄弟分の盃を交わしていました。この石黒は「リャク屋」と
呼ばれる企業恐喝を生業の道としましたが、この男は何故か右翼団体が
気に入らず喧嘩を売っていました。
反面、プロレタリア作家で風雪の時代を過ごした平林たい子は可愛がり、
結果益々業界の反感を買っていました。結局、岡村舎弟の菊地の手にか
かり、交旬社ビルの前で殺されました。
菊地は後に児玉の盟友で、三井の大物である萩原吉太郎系列の炭坑の
社長となっています。
346 :日本@名無史さん:03/03/24 20:59
平林たい子の小説に「地底の歌」というやくざ小説がありますが
、これにはモデルがいます。浅草のある一家の若い衆で人気があ
り、弱いもの苛めをしない筋を通す男で将来を嘱望されていまし
た。彼も将来に夢をもっていたでしょう。彼は兵役にとられ、終
戦を迎えました。
帰ってきた彼を迎えたのは、散り散りになった一家と、今まで仲
間だと思っていた人間たちの裏切りの仕打ちでした。
彼の中で何かが壊れ、何かが生まれました。
彼もまた、児玉の元へ向かいます。
彼の名は、高橋義人。青思会の中核組織の「日本義人党」を率い
反動右翼の汚名を浴びながらも、戦いの渦に入っていきます。

349 :日本@名無史さん:03/03/25 12:19
>>346
義人党の右翼部門を特化させたのが「日乃丸青年隊」ですね。

3356 :日本@名無史さん:03/03/28 22:57
高橋義人は戦後に福岡の博徒である梅津高則と杯を交わす。梅津は
父の代からの博打うちで、父の高次郎は九州で有名な松本治一郎(
1887~1966)と渡世上の兄弟であり九州一の影の親分という。

360 :日本@名無史さん:03/03/29 11:18
梅津高次郎(昭和15年3月28日没・61歳)は明治年間に持っていた山や田畑を
分け与えて、財産は無くしたが、代わりに数万という味方を得た。彼が縄張り
を欲しいと言えば数万の人々が命をも投げ出すという事を世人は知っていた。
為に影の親分と呼ばれた。

http://wikiyakuza.wiki.fc2.com/wiki/%E6%A2%85%E6%B4%A5%E4%BC%9A
梅津会
四代目梅津会(うめずかい)は福岡市博多区千代に本拠を置く日本の暴力団で、指定暴力団 ・三代目福博会の2次団体。
略歴
九州 のヤクザは気性の激しさから激烈な抗争が多く短命な組織が多い中、九州では珍しく戦前から系譜が続いている。
また 山口組伊豆組 初代組長・伊豆健児が若い頃、初代会長・梅津高則 の舎弟だったこともあり、福岡では伝統のある団体として知られている。
初代・梅津高則は児玉師団の大物・高橋義人と兄弟分であり、父・梅津高次郎は松本治一郎の盟友。上海派遣軍にいた許斐氏利(東京温泉)も梅津の流れを汲んでおり日本の暗部と繋がってきた面を持つ。
http://wapedia.mobi/ja/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E7%BE%A9%E4%BA%BA
高橋義人は、ヤクザ、右翼活動家。武蔵屋一家六代目、義人党初代党首、元奥州大学学長、青年思想研究会役員(但し義人党自体は青思研非加盟)。
1. 来歴
元は東京 浅草・小千鳥組の二代目・岩本梅吉の若衆だったが、第二次世界大戦で多くの若衆を駆り出されていた武蔵屋一家の五代目・石井竹松に見込まれて1940年代に武蔵屋一家六代目を継承した。
終戦後すぐ、弟の正義(後に武蔵屋一家七代目)、信義(後に武蔵屋一家八代目)らと共に「新日本義人党」を結成し、焦土と化した東京で活動したが、同党は1950年(昭和25年)に団体等規正令の適用を受けて解散を余儀なくされた。後日、この頃の自分を「どうしようもないやくざもの」と週刊誌のインタビューで答えているが、彼を生まれ変わらせた存在こそ「先生」と呼ぶ児玉誉士夫であるとも発言している。
党は その後、安保闘争で騒然としていた1960年(昭和35年)に「日本義人党」として再建され、後に「義人党」に改称。また京王学園の経営不振に介入して、奥州大学学長を一時期務めている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%B1%E6%96%90%E6%B0%8F%E5%88%A9

許斐 氏利(このみ うじとし、1912年 - 1980年3月5日)は、クレー射撃選手・右翼・特殊株主・興行師。隻流館 初代理事長。ソープランドの創始者としても知られている。
九州の大親分で松本治一郎の盟友としても知られる梅津高次郎の流れを汲む。日本大学在学中の1933年に仲間10人と共に教師を恐喝して逮捕された経歴を持つ。玄洋社の頭山満に師事したが、上海とのコネクションに参画しているも詳細は不明。その後、帝国陸軍内の右翼結社桜会幹部だった上海駐屯軍参謀長勇中佐に接近し、1937年に上海へ渡る。児玉誉士夫の児玉機関に加わり物資徴発に従事した後、翌1938年には自ら許斐機関を組織。阿片を使った工作活動を手がけた。九州の暴れ者たちを統率して荒っぽい仕事をしたとされるが、同じ梅津一門で九州一の暴れん坊とされる高松弥太郎は金儲けをしている許斐を嫌っており、自分の舎弟が許斐に迷惑をかけたため上海まで足を運び九州へ連れ戻した際には、許斐が一言でも文句を言ったならばその瞬間、「突く(刺す)つもりでおった」としている。
戦後大陸浪人として復員し、クレー射撃選手として活動。1956年のメルボルンオリンピックに出場した他、1958年に東京で行われたアジア競技大会では優勝を収めた。また、選手として外遊した際に訪れた蒸し風呂に着想を得て、1951年に、銀座松坂屋裏にマッサージ嬢を配した一大ヘルスセンターの東京温泉を開業。女性(ミストルコ)がマッサージサービスを行い、俗にトルコ風呂と呼ばれるものの元祖となった。
特殊株主・興行師としても名を馳せ、日活の堀久作が新東宝の株を買い占めて紛争となった際には両者を仲介して決着させた。1968年には映画スター田宮二郎に同道して、大映の永田雅一にポスターの序列問題に関して直談判に及んだ。

かなり 個々の記載には 間違いもありますが 杯のつながりです







最終更新日  2010年08月27日 22時26分31秒
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