余多歩き

2011/05/05(木)21:50

児玉誉士とは何者であったか87 萩原吉太郎 会長への道1

昭和二十一年の春 争議が終わって ほっとする間もなく 組合の勢力が強くなって 今度は重役総退陣の要求を突きつけてきた その末に 私を常務にかつごうという運動がおこった 私としては痛し痒しだが 新しい時代には新しい人間でやるべきだと考えた島田さんは 一応全重役の辞表をあずかることにした 私は秘書部長なので この辞表の集め役を命じられたばっかりに あの野郎とにらまれる貧乏くじを引いてしまった でなくとも島田さんについて北炭に移った人間だから 次々へと誤解が生まれた しかし それがそのままでおさまればよかったが 昭和二十二年になってほんとうに総退陣ということになってしまった あの時の辞表をかえしてくれといったところで それを預かっている元締めの島田さんがやめるんだからどうにもならない 残った私が非難の的になり 特にやめていく重役の線につながる連中から強烈な排斥運動がおこった 人情の常でしかたがないが それまで私を常務に押していたものまでもが反対の立場にたち すっかり私を悪者あつかいした 排斥運動の中心になっている夕張の組合長から この際 一応平取締役になり たとえ推薦されても常務は辞退してもらいたいといってきたが それに対して 俺は別に常務なんかになりたくはないが そうかといって諸君の指図は受けたくない 反対なら反対で徹底的に排斥すればいいじゃないかといったものだ やがて二月にはいって総会という段になったが 三井の株は全部 持ち株整理委員会に押さえられているので総会は開けない ghqにお百度を踏んだが 総会の当日になっても許可がおりない さぐってみると その原因の一つに私に対する中傷のあることがわかった 中に 萩原の常務推薦の影には なんとか商会で儲けた金の一部三千万円を組合にばらまいた事実があるといった投書もあったりして 私をあきれさせた あとではっきりしたことだが 私を引きずり落とすために投書を出させた人間にしてみれば いつかウソ八百がばれても 総会さえ済んでしまえば気の毒なことをしたなぐらいで一巻の終わりにできるというコンタンだったようである なんともひどいはなしである そんなことから ghqの許可が下りたのは 総会の始まる一時間前であった これには笹山忠夫さん 野田岩次郎さんらが大いに好意的に動いてくれたのである 一時はかなり緊迫した場面もあった それは こういうことだ 野田さんが自分でghqに乗り込み 熱心に真相はこうだと説明してくれたのがきいて それでは議案の中から私に関する一項を除いて 委任状を出すということになった ところがここで島田さんは そんなばかなはなしがあるものか 委任状はよこさなくともよろしい 総会は流会にしよう とばかり デンと腰をすえてしまった 普通なら 問題が山積しているおりだから 今回は君も我慢して見送ってくれということなのに ガンとして総会を延ばすことにした 一方では島田さんの心意気がしのばれてうれしかったが また一方では立場上ずいぶんつらい思いをした その後もひきつついて 三浦義一さんや 笹山忠夫さんが 彼は断じてそんな人間ではないと説いてくれたりしたおかげもあって 先に述べたように総会一時間前の許可となったのである さて いよいよ常務就任ということになったら それまであんなに私を推してくれたというのに 投書に盛られた ウソ八百のためにみんなから冷たい目でみられた しかしそんな会社は架空の名前で真相はまもなくわかった この事件のあとで投書家連もやってきて ほんとうにもうしわけないことをした いっぱい飲まされて あんなばかなことをしてしまって とあやまった 私の履歴書 萩原吉太郎 より 編注 1 かなりの内部抗争が社内であったことに 留意     2 三浦義一先生が面白い場面に登場していることに留意     3 工作費を誰が負担しているか  

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