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2011年06月08日
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http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/51315840.html
○武藤委員長 緑産業というのはどういう会社ですか。

○吉田証人 それは戰爭中は日南鉱業株式会社と申しまして、タングステン
とかモリブデンを採掘する会社です。それを終戰後はタングステン、モリブ
デンの必要がないものですから、附帶事業を何かやらなければいかぬ、

あるいは製材とか何か(略)附帶事業の願書を出す時に緑産業という名儀に
かえたのであります。(略)いや、これは(利益が出ず)全然だめでした。

http://plaza.rakuten.co.jp/junksai/diary/201010250001/
大蔵省を通じて中国から移入した一億余円の資金のうち七千五百万円は溝久、鐘打、水鉛、乙女、鮎川各鉱山の開発に投資した。残額二千五百万円は鉱山の跡始末と復員軍人救済育英事業その他に投出し現在手許にあるのは五百九十万円であるが、これを悉く労務者住宅、公衆食堂その他社会事業に投す
http://ooinarien.web.fc2.com/inarix-site/sooba/speculator/51-106/index98.html

 笹川良一が初めて相場を張ったのは、大阪府下、豊川村の村会議員当時だ。堂島の米相場師、「池梅」こと池田梅蔵の店でのことだった。笹川は、父鶴吉が残した3万円という多額の遺産を池梅に管理・運用してもらっていた。ある日、笹川は池梅に相場をやってみたいと申し出る。
 だが、池梅は「あかん、あかん、いっぺんに裸にされてしまう。長年やっているわしだって損をしているくらいだから、絶対やったらいかん」とつれない。笹川が「いっぺんだけでええ。やらせてくれんか」と懇願するのには訳がある。池梅が相場でよく損をしていることを知っている笹川は、池梅の反対をやればもうかるはずだ、とひそかに確信していたのだ。山岡荘八が「破天荒 人間笹川良一」の中で書いている。
 「池梅は商売人なのに、相場を張ってよく負けている。そこで笹川は『おっさん、あんた、今売っとるのか、買っとるのか、どっちや』と聞いて、『売っとるのや』と答えると、池梅の主人の逆をいって、“買い”に出るのだった。買うといえば売りに出て、池梅の逆、逆といった」
 ある時、池梅から「アスオイデマツ」と電報が届く。笹川の建て玉が大もうけになったので手じまいをすすめられる。だが、笹川は応じない。笹川が売れば下がり、買えば上がる。「金なんて、こんなに簡単にもうかるもんかいな」。そう思うとなんだか、急に心の張りがなくなって、手を引いた。笹川は相場のもうけと父の遺産をつぎ込んで国粋大衆党の運動に没頭、相場界から遠のいていく。

http://www.earthscience.jp/kaneuchi.html
 鐘打鉱山の歴史は1930年(昭和5年)池田梅蔵によってタングステンの鉱業権を設定したことから始まる。4年後の1934年には藤野鉱業(株)が設立され、同社に鉱業権が移った。その後、藤野鉱業(株)は日南鉱業(株)、緑産業(株)と社名を変えた。第二次世界大戦中は採掘が盛んになり、月産30トンを産出する国内屈指のタングステン鉱山に成長した。タングステンは物理的に非常に高い強度をもっており、対戦車砲の砲弾や戦車の装甲板に使用された。それだけにこの鉱山は日本の国策に重要な地位を占めていた。
 戦後一時採掘が中止されたが、1948年に再開された。1951年には鐘打鉱業(株)が設立され、一時はタングステンの国内生産の30%を占めるほどに発展した。1958年には日本鉱業(株)の経営になった。発展の影には鉱害問題も発生した。1949年ごろから鐘打鉱山から流れ出る鐘打川の水を使用している水田で稲の発育障害が現れた。鐘打鉱業は対策として沈殿槽を建設したが、1971年には稲や土壌からカドミウムが検出され、1978年から汚染土壌の入れ替えと土地整備が行われた。





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最終更新日  2011年06月08日 06時55分54秒
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