余多歩き

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田中清玄

2008年12月04日
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カテゴリ:田中清玄
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E5%B7%A5%E4%BD%9C%E5%AD%A6%E6%A0%A1
さらに日華事変の勃発により、陸軍工兵隊の得意分野である港湾や飛行場、さらには要塞・砲台などの設営術・築城術も独自に習得する必要性を増した。これらは1941年4月より、従来の海軍建築局を拡張した海軍施設本部の設立と特設設営隊の編制で対応したが、人員の養成が急務となっていた。
太平洋戦争開戦のための出師準備中に、これら工作術の要員確保が問題となった。工機学校では本務である機関術要員の大量養成に追われ、工作術要員の養成環境が整わなかった。そこで工作術専門の教育機関を増設し、工機学校では機関術要員の養成に専念することになった。そこで1941年4月1日、久里浜に海軍工作学校を開き、工作術教育を始めた。
工作学校はその任務の性格上、目立った戦果を挙げてはいないが、特修科では特攻潜水兵器の研究開発が行われていた。その成果として知られるのが、特殊潜航艇「海龍」である。
1943年末より、連合軍の反攻が激化し、最前線では空襲被害が続出した。防御のための築城術、反撃のための航空機整備術のいっそうの拡大・強化が望まれた。これらも工機学校で教育が推進されたが、大幅な増員に対応できない状況に陥った。そこで沼津に築城術・航空機整備術の学校を増設し、工機学校から分離することとなった。1944年6月1日、久里浜の工作学校とは任務を異にする沼津海軍工作学校が開かれ、本校も横須賀海軍工作学校に改名した。

http://www.dokokyo.or.jp/data/nenpyo/1945.htm

30 運輸省、運輸復興本部を設置(旧海軍施設本部と旧地下建設本部とが統合。後に建設省の設置に伴い建設工事本部と名称変更。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8B%E5%8B%99%E6%AC%A1%E5%AE%98%E7%AD%89%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7#.E9.81.8B.E8.BC.B8.E4.BA.8B.E5.8B.99.E6.AC.A1.E5.AE.98.EF.BC.88.E9.81.8B.E8.BC.B8.E9.80.9A.E4.BF.A1.E6.AC.A1.E5.AE.98.E3.83.BB.E9.89.84.E9.81.93.E6.AC.A1.E5.AE.98.E3.83.BB.E9.89.84.E9.81.93.E9.99.A2.E5.89.AF.E7.B7.8F.E8.A3.81.EF.BC.89
長崎惣之助 - 最後の鉄道次官(昭和18.10.31迄就任)、飯田のあとに運輸通信次官就任、運輸次官に改称(昭和20.5)、国鉄総裁
飯田精太郎 - 運輸通信次官に改称
平山孝 -
佐藤栄作 - 初代運輸事務次官。内閣総理大臣
伊能繁次郎 -
下山定則 - 国鉄総裁。下山事件参照

大須賀センセイは 三島としていますが
学校は沼津にあったようです つめが甘いです 
そこの資源をどさくさまぎれにいただいたのが 神中組の戦後の躍進の鍵であると センセイは見ていますが
実際は最後にあげた人脈をうまく抱き込んだので  資源を得られ 戦後の占領軍の追求にも逃げられたのでしょう
ちなみに センセイは 清玄のビジネス感覚のない資金の使い方を指摘していますが それはたかってくる方がいっぱいいたからで その点は同情に値します
ちなみに この飯田センセイですが 山口の出で 電力局の偉いさんでもあったかたです 佐藤栄作といい ずいぶん清玄は 長州の方の世話になっています








最終更新日  2008年12月04日 13時04分03秒
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2008年06月16日
カテゴリ:田中清玄
http://en.wikipedia.org/wiki/Zayed_bin_Sultan_Al_Nahyan

BCCI Scandal

In 1972, Agha Hasan Abedi, a Pakistani banker who had set up a new bank called Bank of Credit and Commerce International, approached Sheikh Zayed for investment capital. Abedi had previously set up the United Bank of Pakistan in 1959, which later became a leading nationalized bank in 1971. With this new project at hand, Sheikh Zayed became responsible for fronting the majority of the investment, also partnering with Bank of America (25%) and, allegedly, the CIA. It is claimed that the CIA were seeking a funding route for the mujahideen in Afghanistan, similar to the Investors Overseas Service and the Nugen Hand Bank in the 1960s.

By 1977, the bank was almost certainly insolvent, using cash from deposits to fund operating expenses, rather than making investments, taking on the attributes of a Ponzi scheme. Within another eight years, the bank reported assets of over $4 billion with over 150 branches in 46 countries. Bank of America reduced its share in the bank, with Abu Dhabi's holdings companies taking on a controlling block.

In 1990, a Price Waterhouse audit of BCCI revealed an unaccountable loss of hundreds of millions of dollars. The bank approached Sheikh Zayed, who made good the loss in exchange for an increased shareholding of 78% of the bank.

In December 1991, further investigation found layers of criminal activity taking place through the bank. Around this point in time, U.S. law enforcement was able to legally establish BCCI as an organized crime syndicate. Though Sheikh Zayed's name was not directly mentioned during interrogations, numerous family members were implicated in criminal activity tied to the bank. The investigation found evidence of bribery, money laundering, arms trafficking, prostitution, and support of terrorism. (http://www.fas.org/irp/congress/1992_rpt/bcci/04crime.htm)

田中清玄の知り合いのアラブの王様が かって インチキ銀行に関与していたという件についての引用です。
このBCCIについては かって国会で 日本興業銀行との付き合いが問題になったことがありましたが、あれも中山素平の時代からと考えれば 納得もできます。なにが呪縛だ
なるほど アラブの王様のインチキ銀行の用心棒 パリで豪遊できたわけだし 金融債買って貰える王様の代理人といえば 中山素平も葬式にはでるわな







最終更新日  2008年06月16日 22時32分09秒
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2008年06月15日
カテゴリ:田中清玄
この安藤(明)といっしょになって動いていたのが やはりGHQの工事を請け負いボロ儲けをしていた神中組の田中清玄であった。のちに神中組は三幸建設に 改組されている。田中清玄もまた松前重義の信奉者だった。安藤たちはポスト幣原内閣として GHQに働きかけ 松前首班を打ち出していた。ところが 肝心 の松前が公職追放をかけられ 工作は頓挫した。怒った安藤と田中清玄の二人は 楢橋渡内閣書記官長のところへ 早朝 殴りこみをかけた事実もある。黒の機 関 森詠 祥伝社文庫よりhttp://tech.heteml.jp/2006/11/post_836.html安藤明についての説明はこちらを参考 にしてください。現在 出ている本では 宮崎学著の不逞者に 安藤明のことがでています。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%89%8D%E9%87%8D%E7%BE%A9
松前重義については こちらを参考にしてください。追放直前は 逓信院の総裁で
この経歴をみる範囲では、清玄も 若干 かかわりのある玄洋社系の方と親しかったようですが たしかにこの方は熊本出で 安藤明の葬式に出た わずかの政治家の一人が 西郷吉之助さんです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A2%E6%A9%8B%E6%B8%A1
楢橋渡については こちらを

松前重義が 反東条で南方に流されたいたときに 知り合ったのが 水野成夫のようですが、どうも この松前 水野 安藤のラインで 官僚時代の 佐藤栄作 池田勇人と結びついたような状況です。
最初から 吉田系ではなかったようで、この松前重義との結びつきがあるので 意外に 社会党系にも 顔が利いたらしいことへの謎が解けました。
電源防衛について、下山事件 最後の証言の中で 清玄が 主流のラインとちがう立場にいたのも 戦前までの逓信省ラインから 電力の利権が 商工省ラインに取られてしまったように見えることと 大きな関係があるのかもしれません。
しかし このようにみると 反岸という立場の根本がわかります
安藤明は 戦時中に、朝鮮人の手配師からはじめて 土建屋業で 一時期 大成功を収めたようですが 清玄もその引きで 土建屋で 成功したようですが
なにも隠すほどのことではないと思うのですが、自伝では まったくといっていいほど 触れられていないところが面白いです。 






最終更新日  2008年06月15日 20時46分56秒
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2008年05月22日
カテゴリ:田中清玄
http://www5e.biglobe.ne.jp/~isitaki/page045.html


樋口 喜走  ひぐち きそう 10・11・12・13

 (現在は)喜壮。樋口満の子。早大(政経)卒。〔日魯漁業函館支店〕 昭和19年三幸建設
副社長。三陽取締役社長。

▼「樋口喜壮」『修猷館同窓会名簿』

問題もあるが これが三幸建設工業なら おもしろい







最終更新日  2008年05月22日 22時06分51秒
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2008年05月17日
カテゴリ:田中清玄
http://plaza.rakuten.co.jp/hint2003/diary/200805130001/面白いことに、この昭和二十六年六月。「やる気はあるけんカラダがついてゆかん」というヒソミで鳩山一郎は、なんと脳溢血でぶっ倒れる。夏のまっさかりに日本座敷で氷柱を立てて凌いだそうだ。政界に戻るには、厳しいリファビリと栄養摂取に配慮せねばならぬ。
こんな鳩山一郎が、赤坂の芸者のことをまめに世話できたら超人だ。
まんまと田中清玄にしてやられたとしたら、こういう時期の話だろうか?そんな気がする。
こ の鳩山一郎の必死の治療と回復で、秋九月に日比谷公会堂での政界復帰宣言となる。だが、なんの準備も整っていない鳩山一郎に、吉田茂は爆弾をぶつける。つ まりは「抜き打ち解散」だ。リファビリもそこそこに、選挙準備もあらばこそ抜き打ち解散では足腰が立たないではないか。元親友同士のなんと麗しい友愛であ ることか。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E7%99%BD%E6%B4%B2%E6%AC%A1%E9%83%8E
こんなエピソードも
吉田茂の腰巾着であり、吉田の政敵鳩山一郎の公職追放解除を遅らせたとして、鳩山から恨まれ続けたとの指摘(戸川猪佐武)があります。

鳩山一郎の件については 元の本にあたっていないので、詳細は知りませんが どうなんでしょうかねーえ
愛人はいたらしいのは確実みたいですが 
公職追放の陰謀が ほんとうにあったか どうかは別にして 周囲がどうおもったか?誰が最後に笑ったか?を思うべきですが どうでしょうか?
ただ この当時 清玄とジローさんが どう見られていたか?
その点は 面白いものがあります。









最終更新日  2008年05月17日 15時00分19秒
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2008年05月14日
カテゴリ:田中清玄
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/058/0140/05807300140036a.html

大谷センセイの名前はまったくでていませんが 山口組 壊滅せず 鈴木達也著という本の中では この京阪神土地と 大蔵省のおえらいさんを結んだのが 大谷センセイと出ています。宝石を絵画のようにして 裏金の仲介とか やっていたんでしょうか?

藤木幸太郎を 検事筋から紹介されて その系譜で 田岡を紹介されたという自伝の流れも間違いではないと思うのですが 清玄の周囲を見ていると 自伝にいう綺麗ごとの関係だけではありません。

畑時夫という方は嶋中事件で 清玄と一緒に動いた方ですが 元を正せば 佐野学の労農前衛党にいた方で この方は皇民党事件でも影にいた方で(その奥には 大勲位のお姿が、、、、、、)

また星井真澄とか 西郷隆秀など 清玄と割と関係の深い右翼の方って 関西系の方が多いのですが(なぜ その奥には 笹川センセイの姿が、、、)

それで その畑センセイとか 星井センセイの下にいたのが 白神組長の系列の方々で

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/126/0380/12602150380008c.html

こんなことが表面化したりします。(どうせネタ元は 大勲位)


http://www.asiabunko.com/zatugorin171_180.htm

引 き続き調べると、1962年3月2日の、第40回国会予算委員会の議事録に「富士車輌」の名が見つかった。質問者は、社会党の横路節雄。北海道出身の国会 議員横路孝弘の父親だ。質問の内容は、タイの軍部や政治家と特別円がからむ「カネと権力と商売」の話だ、要約するのは長いので、興味のある人はこの議事録 を読んでいただきたい。しかし、実を言えば、読んだってわからないのだ。日本の企業とアジアの権力者のベタベタのカネの関係は、わからないことが多いの だ。
 とはいえ、一応、要点だけ書いておくと、日本企業はピブーン派のパオ警察長官にコネをつけたところと、サリット元帥につながる企業があっ た。1950年代のタイは、軍と警察が権力争いを続けていて、火気を使った紛争もあった。今から考えれば、メチャクチャな時代だったのだ。1957年にサ リットはクーデターを起こし、ピブーン政権を打倒し、ピブーンは亡命したから大変というわけだ。これにより、タイ国軍は権力を掌握し、敗れた警察は、軍に 見下される組織となったのである。
 権力とカネのそうした話はともかく、国会で「サリット」だの「ピブーン」だのといった名前が登場した時代があったのだなあと感慨深い。

この当時 タイにいたのが 田中清玄ですから ねーえ 影でいろいろあったのでしょう

http://www15.plala.or.jp/gemuseum/gemstry-emrld-smg.htm

宝石屋さんで お金を洗う方法で ドンピシャとはまるところがありませんが そごうの宝石屋さんに 清玄がお世話にならなかったとは まずないような気もしますね


 






最終更新日  2008年05月14日 22時59分07秒
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2008年05月11日
カテゴリ:田中清玄

 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E9%87%8E%E7%A2%A9

1931 年、アメリカを経由してドイツに入国し、ベルリンで医師の国崎定洞らが携わっていた社会主義運動のグループに加入。プロットの代表としてソ連に派遣される ことになり、演出家の土方与志夫妻ともに1933年に入国する。ソ連では世界的演出家のメイエルホリドが主催する国立劇場の演出研究員となり、メイエルホ リドの指導を受けた。やがてソ連は大粛清の時代を迎え、国崎が山本懸蔵の密告により「日本のスパイ」として処刑されると、1937年8月に佐野は土方らと ともに国外追放の処分を受けてソ連から出ることを余儀なくされた。佐野が国外追放された後の1938年1月に女優の岡田嘉子とともにソ連に入国・逮捕され た演出家の杉本良吉が、当局の拷問を交えた尋問に「佐野や土方は日本のスパイである」という虚偽の供述を強要され、これが決め手になってメイエルホリドは スパイとして粛清されることとなる[1]。

ソ連を出国後の佐野はフランス・チェコ・アメリカを経て1939年にメキシコに渡り事実上亡命する。当時メキシコは大統領ラサロ・カルデナスの方針でトロツキーやスペイン内戦に敗れた共和国派の関係者の亡命を受け入れていた。

た だし佐野のメキシコ入りには、トロツキー暗殺が関係しているのではないかという説がある[2]。当時、アメリカ共産党員としてアメリカ滞在中の佐野を世話 した石垣綾子は、佐野のメキシコ入国に、トロツキー暗殺未遂事件を起こした画家シケイロスが尽力したと回想している[3]。政治評論家の藤原肇は、佐野が シケイロスと組んでトロツキー暗殺に関連したと断言している[2]。

佐野はメキシコで演劇学校を創設し、粛清された師メイエルホリドの身 体訓練法ビオメハニカではなく、スターリン体制下で正統派とされたスタニスラフスキー・システムを紹介して多くの演劇関係者を育成した。また、ホセ・グァ ダルーペ・ポサダがメキシコ革命を題材に描いた漫画をモチーフとしたバレエを創作・上演し、多くの観客を集めた。1955年にはコロンビア政府の招請でボ ゴタに3ヶ月間滞在し、ここでも演劇関係者の教育に当った。ボゴタで佐野の教えを受けた一人であるサンディアゴ・ガルシーアは後に民衆劇団「ラ・カンデラ リア」を創設し、その拠点となる劇場を「セキ・サノ・ホール」と命名している。

佐野はメキシコで現地人の女優と結婚した。1966年メキシコ在住のまま死去。メキシコで名声を得た後も、日本人や日本とは一線を引いていたと言われる[4]。







最終更新日  2008年05月11日 20時49分38秒
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カテゴリ:田中清玄
赤http://t-t-japan.com/bbs/article/t/tohoho/8/epyqrf/crmqrf.html

「新申報」についての情報
そういえば以前、渡辺さんが「新申報」についての情報を求めていらっしゃいました。
今日たまたま読んでいた、昭和16年発行、馬渕逸雄著「報道戦線」に、「新申報」についての記述がありましたので、紹介します。

  事変勃発当初上海には大小三十近い華字紙があつて猛烈な抗日態度を示し、十数の外字紙も亦日本に反抗を続け、上海以外の各地の新聞悉く抗日であつた。之に 対し日本側では僅かにローカルの三紙があつたのみで、而も之等は敵の爆弾によつて工場が潰滅せられ謄写版でニュースを配給するに止まると云ふ有様で、新聞 による宣伝は全く歯が立たない実情であつた。
 口では日本帝国の真意を支那人に闡明すると云つても、日本の考へを支那人に知らせる手段なく、戦闘 には勝ちながら敵側の戦勝デマを拱手して見て居なければならないといふ有様で、華字によつて支那人に呼びかけるべく、日本側によつて華字紙を発行するとい ふ事が絶対に必要であつた。
 事変前「上海日日」は夕刊として華字版を出して居たが、事変勃発と共に発行を停止して居たので、軍報道部は其の工場 並びに発行権を買収して新たに華字紙を発行する事にした。そして租界の一流紙「新聞報」と「申報」を兼称せしむる意味で「新申報」と名づけ、堂脇少佐、金 子少佐が苦心の末、程克 初め有力な支那人を集め、論説委員として日高、山本氏等を招き、昭和十二年十月一日創刊した。
日本人の出した新聞を抗日 意識に燃えた支那人が読む筈がないので、当初は全然その記述も体裁も支那人発行のものとして出し、南京、蘇州、上海等の要人に郵送したのであるが「斯の如 き非愛国の文字を見るに忍びず」とて酷評を朱書して返送して来るものもあり、上海租界では売子が迫害せられ、売ることが出来なかつた。そこで飛行機によつ て支那の戦線に撒布し、抗日支那将兵に日本のニュースを読ませることにした。
 赤松克麿君、高谷覚蔵君が報道部の応援に来て、力瘤をこの「新申報」の論説に入れて呉れ、申城、?(パソコンで出ないので一番近い字)城の筆名によつて大いに論陣を張つたものだ。
  同文書院の久重福三郎教授は学生を激励するため自ら応召を志願し、一軍曹として柳川兵団の杭州湾上陸作戦に参加したのであるが、其の適材なるを惜しみ、杭 州攻略の後軍報道部に配属を受け「新申報」に其の特有の技能を発揮せしめる様にし、高谷覚蔵君が社長、久重君が副社長と云ふ格で「新申報」の発展に努力し た。次いで亀山嘱託も報道部に入り、専ら「新申報」の経営、紙面の充実に盡力した。

(「報道戦線」P223~P224)

http://www.waseda.jp/prj-m20th/magazine/magazine4/asahi.html


一、 朝日新聞社の「汚点」
  朝日新聞社は創刊111周年の1990年に浩瀚な4巻本の『朝日新聞社史』(以下『社史』)を公刊した。中江利忠社長(当時)はその「序」のなかで、「公 平無私」や「不偏不党」の編集方針で言論の自由を貫き、真実の報道と進歩的な評論を展開して来たが、この長い111年の歴史の中には「残念ながら、太平洋 戦争の一時期などのように、この創刊以来の伝統が守り切れなかったり、逸脱して大きな汚点を残したりした事実も、消すことができません」と述べている。
  たしかにこの期に日本は有史以来、はじめての敗戦を喫したのであるから、『社史』のなかで「大正・昭和戦前編」の巻が近現代史の中での同紙の評価を自ら問 うものとなっている。最有力紙として日本の開戦に賛成し、国民を戦争に駆り立て、国内外の多くの人命や財産をなくし、外国による占領という不名誉な事態を 導いた責任は厳しく自己評価しなければならない。
 自らの戦争責任については、すでに同紙は従来の社史でかなり率直に分析し、反省の姿勢を示している。今回の社史においても、その姿勢は貫かれている。各時点の同社の行動について、今まで以上に新しい資料が公開され、分析にも踏み込みが見られる。
  しかし社長が「序」で言っている「汚点」を抉り出し、「過ちは過ちとして包み隠さず記述」しているだろうか。この小論ではこの700ページになんなんとす る「大正・昭和戦前編」を論じ尽くすことは出来ない。そこで、この巻の「昭和戦前編」の第9章「総力戦に協力」にある第5節「南方と大陸の新聞経営」の末 尾の実質1ページの箇所のみを取り上げてみたい。1942年秋から占領地で『ジャワ新聞』、『香港日報』などを軍当局の委託を受けて経営していたことは、 同社のどの社史でも触れているが、小論が対象とする「大陸新報と新申報」については今回の『社史』で初登場したものである。そこでまずその全文を引用して お(1)く。
 
 昭和十四年元日創刊の「大陸新報」は、華中における日本の国策新聞で、陸軍、海軍、外務三省と興亜院の後援で設立、本社 を上海においた。朝日から相当の人員が大陸新報に転じた。これは朝日が軍から委託されて経営したのではなく、朝日が新聞経営に協力したのであった。その点 で、ジャワ新聞などとは発足のときから性格を異にしていた。朝日はアール・ホー高速輪転機二台とオートプレート一台を貸与した。また、大陸新報社は、現地 軍報道部が発行していた華字紙「新申報」を合併して姉妹紙とした。
 「大陸新報」設立時の事情について、美土路昌一(当時、朝日新聞常務取締役・東京本社編輯局長)の話は要旨つぎのとおりである。
  昭和十二年末の南京占領の後と思う。陸軍の影佐軍務課長が朝日新聞社に来て、「軍の考えで上海で新聞を出したいが、朝日でやってくれんか」といったが、 断った。その後福家俊一が甘粕正彦の使いで来て「海軍も一緒で宣撫工作として新聞を出したい」という。「それでは、朝日は関係はしないが、新聞を出す手伝 いをしよう」といった。私が「そもそも新聞は自主的なものでなくてはいかん。御用新聞は現に上海でも北京でも役に立っておらぬではないか。軍の悪いことは 悪いと書かなければ本当の役には立たない」といったら、影佐も海軍の岡軍務局第一課長も「それで結構だ」といった。そうして、朝日が手伝いをすることに なったわけだ。福家を社長にしたら飛上って喜んだ。……そんな風で“自主民営”を創立方針として出発したわけだが、あのような時勢でもあり、必ずしもその 通りにはゆかなかった。そのうち福家をやめさせて副社長の尾坂与市(朝日出身)を社長にした。尾坂君は立派な男だった。上海でも大分軍にたてついたそう だ。終戦後もみんなを帰して一番あとまで残った。
 終戦の八月十五日の午後、武漢の「大陸新報」は徹底抗戦の社説を書き、軍報道部へゲラを提出し た。報道部はやめるよう説得につとめたが、支社長(朝日出身ではない)は「命がけで書いたのだ」と応ぜず、けっきょく軍としては「検閲不許可」にしてし まった。十六日の社説は空白のままであった。
 以上が南方および中国での朝日関係の新聞であったが、戦後、美土路は、「私は戦時中の御用新聞発行 には反対だった。しかし当時、私にはそのことで相談もなかった。相談しても賛成すまいということだったろう。村山、緒方、石井君らで決定していたようだ。 それは日本が勝ち、南方地域が日本の勢力範囲に入れば、ますます朝日新聞が発展することになる、部数がふえるという感覚であったのだろう。大陸新報は私が 関係したが、これは別で意味が違うと思う」と語っている。






最終更新日  2008年05月11日 09時57分20秒
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カテゴリ:田中清玄

http://209.85.175.104/search?q=cache:0wi6gndIiiQJ:akikoina.hp.infoseek.co.jp/kk100simp040904.pdf+%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%8F%82%E8%AC%80%E6%9C%AC%E9%83%A8%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E9%83%A8%E3%80%80%E9%AB%98%E8%B0%B7&hl=ja&ct=clnk&cd=3&gl=jp&lr=lang_ja


リュシコフ大将に捧げるレクイエム  中田光男(勝野金政氏参謀本部時代の同僚)
私には終生忘れることができない三人の巨人がいる。矢部忠太(参謀本部十一班長、
最後のソ連駐在武官少将)、リュシコフ大将(ソ連極東地方ゲペウ長官、日本へ亡命)、村井順(初代内閣調査室長、綜合警備保障社長)。
三 人とは声咳に接し、公私に亘り指導を受けたが、特にリュシコフ大将とは、戦乱下、再会を約し楽しみにしていたが、可惜四十二才の春秋を日本軍により射殺さ れた非業の死は、私のみならず今日の難局の日本にとっても惜しみて余りある巨人であった。今、勝野金政氏の生誕100 年記念に、親交のあったリュシコフ大将へのレクイエムを捧げることは奇縁といわねばならない。
(1 )リュシコフとの出会い
一九四一年 春、先輩の紹介で参謀本部に矢部中佐を訪ね、彼の人格に圧倒され(人生意気に感じ)奉職した。最初の仕事は宛名の判らない手紙をロシア語で書くことで、内 容は「貴君の生命財産は陸軍が保障する。今後貴君には自由な生活ができるように計う。毎月充分の生活費を保障する」というものであった。宛名の判らぬ手紙 は書きにくかっ
たが、ロシア語で何とかまとめた。
翌日、日本へ亡命した外蒙軍のダンザン・ローダン(作戦部長少将)に引き合わされ
た。半年間、国内を巡り彼に日本の実情を認識させる様教育せよという命令であった。
学校を卒業したばかりの私には難問であった。以後、三ケ月間、全国の施設視察と観光
に費やしたが、スターリン体制下、外蒙独立を策した志士も、脱出時の落馬が原因のカ
リエスとなり、九月、内蒙軍に送って行き、帰路ハルビンのソ連亡命者収容所(保護院)
で、調査する機会を持った時の経験は役に立った。
十月帰国するや、矢部部長から又、亡命者を托された。ゲンリッヒ・サモイロビッチ・
リュシコフ三等大将である。神楽坂を登り切った右手に赤城神社があり、社の森の北側
に豪壮な邸宅に憲兵詰所があった。その一室に住んでいた。いわば警備を名とする軟禁
状 態におかれていた。私は三年前新聞で大きく報道されていた亡命したリュシコフの印象が残っていた から直ぐ旧知の如く打ちとけることができた。彼は‘38 年 6 月、満ソ国境を突破、日本に保護を求めて亡命したソ連ゲペウの極東地方長官・三等大将であった。話をしているうちに、半年前宛名のない手紙は彼に宛てたも のと気付いた。彼は手紙のロシア語の表現を褒めてくれ、矢部中佐の恩義に感謝した、人物を知るのは人物だと思った。(2 )ソ連事情講述間もなく神楽坂の寓居から目黒区碑文谷公園傍の借家に移った。同時に樋口みよ が家婦として世話することになった。私は連絡係として隔日に 彼のもとに通いソ連事情を親しく教えられた。この二年間はソ連を知る絶好の機会となった。話は政治、経済、社会、文化、芸術、生活、情報政策、粛清等など 全般に及んだ。神楽坂時代既に四つの論文で、スターリン体制を痛烈に批判し、「改造」誌上に発表していたが、私への講述を開始する、「ソ連共産党批判、」 の執筆を始めた。当時はスターリンも執筆した「ソ連共産党小史」‘38 年刊が、国民の書として強制されていたことに反駁したもので、共産党の虚妄を砕することを意図した壮大な作業であった。(彼はワラ半紙を半折し裏表四面に 書き込んだが、’46 年春渡満時、新潟の空襲で惜しくも焼失した)
独ソ戦が開戦すると、彼は毎日短波放送で戦況を聞き参謀本部に電話で報告して来た。
この担当を高谷が当った。私への講述は引続き継続され私は「情報」の重要性をいやという程叩きこまれたリュシコフは情報とは「予想の科学」であるといい、情報の読み方、考え方、判断を繰り返し教えた。又ある時「ソ連文学の動向」という文学論の翻訳を頼れた
が、文学に素養のない私には難解だったことを思い出す。
‘42 年戦局は酷しく敗報が相次いだ。一口坂の九段事務所も臨戦態勢となり、リシュ
コフも毎週水曜日に来て会議を開いた。高野覚蔵、勝野金政、馬場秀夫(毎日新聞外報部)、吉村按里(ニコライ堂総主教)、原書一郎(コロンビアレコード宣伝部長)、岡田桑三(松竹俳優、東方社社長)と私。情勢分析に続き戦場宣伝の媒体を検討した。その後
いつだったか高谷は元ソ連共産党員ということでハルビン特務機関に移り、後任として勝
野氏が会議を主宰した。一口坂の老舗らしい鰻やの弁当を食べながらの雑談は、皆ソ連体者だったから、その思い出話になった。リュシコフと高谷の談は、コルホーズ強行に反対した村民を並ばせ
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彼が話すときは回転椅子にかけ片足の靴を脱ぎ他方を膝の下に入れ、常に笑顔を絶やさず、
鼻をクンクンさせながら手の甲で鼻の辺りを擦っていたのが印象的であった。
私は陸軍で謂う情報が、宣伝、謀略、諜報を含む心理戦で、参謀本部十一班は武力に依ら
ないで敵を屈服する孫子の兵法を範とする心理戦の体系化を構想していたから、この会議で論議は大いに役立った。

(3)餞別の言葉
‘43年10月に私の入隊が決まった。一夜、リュシコフが神楽坂の料亭で送別会を開い
てくれた。彼はシンミリと「この戦争は敗戦必至だ、だが、君は死んではならない。死んだ
ら犬死だ。君に話したソ連革命を思い出して欲しい。“敗戦を革命へ’’と考えたレーニンの
所謂“二段革命論”だ。革命は日本の敗戦後に迫っている。その時こそ存分の働きをして欲
しい」と言った。
‘45年8月、終戦直後のハルビンで脱出を決意できたのも、このリュシコフの教えに従
っただけで、私には何の躊曙もなかった。関東軍将兵60万は為すところもなくシベリアに
送られ、十年の歳月を抑留されたのである。リュシコフから教示されたソ連の実相は、私の
一命を救い、その後も「ソ連を知りすぎた男」として追及を招いたのは何とも皮肉であった。
(4)リュシコフ暗殺命令
‘45年2月、関東軍司令部からハルビン特務機関の諜報班長へ作戦命令で転属した。任
務はソ連の開戦時期の測定であった。これが最後の仕事と覚悟し、思い残すことなく潔く死
のうと思った。測定方法として四つの方策を考え出し、部下を督励した。期限は6月初めで
ある。
その頃リュシコフから葉書が来た。ノひらがなの文面には間もなくハルビンに行き、一緒に
仕事をするのを楽しみにしていると書かれてあった。私も再会を楽しみにしていたが、それ
は遂に叶わなかった。
ソ連侵攻の時期を九月と結論し関東軍司令部に上申したが、現実は広島、長崎に原爆が投
下され−ケ月早くソ連は侵攻してきた。鉄壁を誇った関東軍は各地で敗走した。私には開戦
と共に満州内異民族の動向を司令部電話する任務が与えられた。電話ボックスから見る参謀
達の醜態に情然とした。西方面の白城子辺の砲声に怖気づき、酒で恐怖を紛らさせている醜
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態であった。
開戦二日目、夕刻山下参謀長に呼ばれた。「リュシコフ大将を暗殺せよ、直ちに大連
に赴き、大連特務機関長と連絡し実行せよ」との命令であった。−一瞬考えて「私には
できません。公私混同かもしれませんが・・。なぜ殺さなければならないのですか」「参
謀本部からの命令だ」 「陸軍は彼に大恩があります。私にはできません」 押し問答
が続いた。室に戻り考えた。命令は絶対である、しかし・・・。
夕食時、高谷覚蔵を官舎に訪ねた。この話をするや「それを俺にやらせてくれ。一緒
に山下参謀のところに行って高谷にやらせてくれ」と懇願された。思えば彼はソ連の裏
切 者である。ソ連に捕まれば縛り首を免れまい。高谷は迫る危機を暗殺に賭け、成功したらと七十万円と飛行機を要求した。後日、彼に確認したら暗殺は勿論でき るわけがない、奉天で時間をつぶしてハルビンに引き返したとのことで、終戦の混乱に紛れた詐術であった。大連のリュシコフはというと、ハルビンから誰も現 れなかったので、特務機関の竹岡大尉が宿舎のヤマトホテルから呼び出し、拳銃を前に自決を迫ったが拒否された。今はこれまでと階段を降りる背後から発砲し たとのことである。歴史にIFは許されないが、私に知恵が働き、上海の租界(バンド)に逃避したら、時代も変わり、リュシコフも晩節を全うすることができ たにであろうにと思い、この知性の巨人を救けつことができなかった不明を恥るばかりである。冥福を祈る。

『情報将校の回想』(未完)を抜粋しました。







最終更新日  2008年05月11日 09時40分57秒
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2008年05月08日
カテゴリ:田中清玄
http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/50565361.html

金銭感覚がまともとは こういうことですか?

http://aishoren.exblog.jp/5622781/

岡崎邦輔が新橋の料亭とんぼの女将
望月圭介が紅葉館の女中お福
桜内幸雄が新橋の定丸
松野鶴平が赤坂の名妓小きん
広岡宇一郎が新橋の林屋の女将茂治
三木武吉が神楽坂の待合い松の枝の女将、料亭ぼたんの女将(計六人)
鳩山一郎は赤坂の芸者雪奴
町田忠治は赤坂の料亭中川の女将(7-8P)
吉田茂はこりんちゃん(23P)

 ちなみにこの鳩山さんの雪奴(松室雪子)は、突然居なくなり、どうしたかと思って自民の陣笠たちが調べたら「田中清玄に口説き落とされて、田中の家にいることがわかった」(8P)。これでは鳩山一派や児玉筋とは、仲が悪くなって仕方あるまい。
 筋をとおさぬ不埒な横紙破りを清玄がしているのだから、やはり卑劣な印象を受ける。どうしても雪奴を射止めたいならば、鳩山にはきちんと筋だけは通すべきであろう。
やはり自伝で良いことばっかり書いているが、清玄というのは如何に信用ならない男かこれでも立証された訳である。

この種の黒幕とかフイクサーなどと呼ばれる人間には えてして女性関係がルーズであり、金銭感覚もかなりいい加減な人物が多いのが世間一般の印象だが 田中の場合はむしろ逆である
田中清玄自伝 ちくま文庫 363ページより







最終更新日  2008年05月08日 23時30分10秒
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