余多歩き

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児玉誉士夫

2008年09月23日
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カテゴリ:児玉誉士夫
イイノホールで 飯野海運で 犬養 並木という連想は 座布団一枚です。
談志師匠のタニマチに そちら関係の方が多いんでしょうね。立川流の上納金制度を思いついたのも その筋の方のアドバイスだそうで

それにしても 飯野海運といえば 下記が思い出されますが

http://www.fukushokai.or.jp/fukusho/148/index12.html

造船疑惑で 有名になった方の後輩に凄い方がいます

http://www.fukusyo.com/fukusyo/hist/hist002/hist002.htm
。その頃すでに、藤野隆助先生が初代の東京支部長であったと考えられる。大先輩2回の出光興産社主・出光佐三氏、7回の東京瓦斯杜長の高田五郎氏14回飯野海運会長の俣野健輔氏をはじめ、あの右翼の児玉誉士夫の右腕といわれた通称彦ちゃん・28回の吉田裕彦氏もすべて引受けられたとのこと。

さて 造船疑惑の際に問題になった指揮権発動については ちょっと面白い噺があります
http://www.sankei.co.jp/seiron/koukoku/2001/ronbun/08-r2.html
捜査の手は、自由党幹事長佐藤栄作に迫った。検察側は、四月十七日、国会に佐藤の逮捕許諾を求める決議をし、法務省にその意向を伝えた。しかし、四月二十一日、法務大臣犬養健から佐藤藤佐検事総長に対し「別途指示があるまで逮捕請求を差し控えるように」との、いわゆる指揮権発動がなされた。
 捜査には機というものがあるようだ。
 造船疑獄事件の捜査は、この指揮権発動によって一気に萎んでしまい、佐藤栄作は逮捕を免れ、造船業界から四千万円を超える献金を受領しながら会計帳簿に適正に記入しなかったという政治資金規正法で起訴され有罪となったが、いわゆる国連恩赦で、昭和五十六年、免訴となった。
 特捜部は、指揮権発動による造船疑獄捜査が頓挫した後、長い冬の時代を迎える。
 犬養は、指揮権発動の責任を取って法務大臣を辞任し、二度と政界に復帰することはなかった。
2、検察庁法第一二条には「法務大臣は、第四条及び第六条に規定する検察官の事務に関し、検察官を一般に指揮監督することができる。但し、個々の事件の取調又は処分については、検事総長のみを指揮することができる」と規定する。指揮権の根拠である。造船疑獄事件以前には発動されず、それ以後も発動されていない。この眠れる条文に息を吹きかけたのは誰か。犬養にその発動を迫ったのは誰か。
 松本清張は、その著『日本の黒い霧』(文春文庫、一九七四年七月)の中で、それは総理吉田茂と副総理緒方竹虎であるとし、ただしその裏には、法律に素人のこの二人に検察庁法第一四条の存在を知らせた人物がいなければならないとして、「それは約九名の人達から成る法律関係の連中だった」としている。だが、約九名の人物が誰であったかは書かれていない。
 謎の人物をめぐる論争は跡を絶たない。
 比較的最近の例では、一九九九年十二月二十七日の毎日新聞の特集「検察が政治に屈した日」がある。その中で、当時佐藤幹事長の弁護士だった元法相で昭和十六年から検事総長を経験し、検察庁法の立法作業にも関与した人物しかいない、という牧内節男元同紙社会部長の談話を掲げている。それに該当する人物といえば、松阪廣政しかいない。
 児玉の関与を指摘する関係者もいる。
 犬養は、指揮権発動で失脚し、翌年、療養を兼ねて箱根・芦ノ湖湖畔にある箱根ホテルに滞在したが、その手配一切を行ったのが児玉であり、犬養はこれを感謝し、厚い謝意と自分の不遇を綿々と綴った手紙を児玉に出しているとのことである。そこから直ちに指揮権発動の黒幕として児玉を推定することは無理であるにせよ、児玉の影が見え隠れするのは否めない。

 児玉が関与したとすると 本来ならば 児玉は 造船疑惑で 吉田政権を刺す立場なんですが  ここでは 佐藤栄作に恩を売り 貸しを作る立場になっているようにも見えます。これがあるからこそ 保全経済会事件と造船疑惑で 刺し会いに持ち込めたのかもしれません
次回は この松坂さん周辺と 児玉と司法関係者とのつながりをみてみましょう









最終更新日  2008年09月23日 23時19分37秒
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2008年09月19日
カテゴリ:児玉誉士夫
今の落語協会会長の馬風師匠が、昔 キックボクシングの呼び出しをやっていた時期がありまして(ここのキックボクシングという点に注目) その時期に独演会をやったことがあります
そのときの噺です。

不思議な独演会
外回りの仕事(キックボクシングの前にはキャバレーの司会 ここも注目)の話ばっかりみたいだけど 二つ目になってだいぶたった頃 昭和45年くらいかな 霞ヶ関のイイノホールで独演会をやったことがあります。これもキッカケは談志さんがある日 あたしに勧めててくれたんです。
 もうそろそろ真打ちだろ 何年噺家やってんだ。十五年近くか そんならパッとやんなよ。イイノホールなんかどうだい 独演会をやれば上の人も見てくれるし 名を上げる意味でもいいんじゃないの
 じゃあ それでやってみますよ ということで こっちは 言われりゃすぐ動く(笑い)
 このとき お祝いに送られた花輪がイイノホールのロビーに並びきれなかったんです。ホールの入り口からロビーに並びきれなかったんです。ホールの入り口からロビー 客席の両サイド 舞台までピッシリ花輪 あんなに凄い花輪は見たこともないと 今でも言われます
 この花輪の元は 汲木量次郎( 注 たぶん 並木でしょ)という ある建設会社(たぶん 間組)の顧問をやっていた先生で 独演会をしますと 報告したら どうする ご祝儀がいいか 花輪がいいか ときかれたんです
ここで ご祝儀と言ったら 腹ァ見られちゃうと思うから できればお花をと返事をしたら そうかい じゃあ オレの顔で集めるだけ集めるからてえことになった
汲木先生の一言で もの凄い数の花輪と天井から垂れんばかりのくす玉がズラッと並んだ。くれたのはみんな 見栄はる世界の人達だから あの頃で一つ二万五千円くらいする高い花輪ばっかりで 平塚の七夕みたい(笑)
 会が終わってから2~3日してから まだ結婚式前だった神さんと二人 花なんかじゃなくて 現金で貰っとけばよかったと思わず悔やんだね 一万六千円のアパートにいた時代だから くす玉一個で家賃が出ちゃう あれだけの数の花輪分 現金で貰ってたら 家が建ったかもしれないスよ
 また この会のゲストは凄かった 小さん 三平 談志 圓楽 圓蔵( 当時 円鏡) 毒蝮 色物が小鉄師匠 前方の顔ぶれはすばらしい(笑)(まじで 凄い顔ぶれです)
 それで 小さん師匠以下 ゲストの面々は花輪を見て すごいえねえ かゑる(馬風師匠のふたつ目当時の名前)はさすがだねえと感心してたけれど 客席の扉あけて中を覗いたら 客席七百五十のホールに 客が百五十人しかいない(笑) 切符は全部 売れているんですよ 買ってくれたのは その筋の人ばっかりですけど
 だけど 一番 偉い人たちが真ん中あたりに座っているもんだから 若い衆なんかはホールまでは来ても あんなところで笑ったら 指何本あっても足らねえと 客席を覗いて みんな帰っちゃった それでバラバラ
 ゲストのメンバーには大受けで みんな高座にあがると その話が枕で 楽屋でも それを聞いて みんなでゲラゲラ笑っている 楽屋の笑い声がまだらな客席にガンガン響いたという 前代未聞の独演会でしたね

会長への道 鈴乃舎馬風 小学館より


 






最終更新日  2008年09月19日 22時49分24秒
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