ヘイトスピーチ
ヘイトスピーチ=憎悪発言憎悪発言の最たるものはファビョるチョンの前酋長:李明博のレームダック時の発言である。人が生まれ変わる限り、次から次に新しい言葉も生まれてくる。が、その概念に新しさを見つけられるものは少ない。皮相的な言葉を、新語らしく言い換えて関心を惹こうとしているだけ。「ヘイトスピーチ」なる言葉はNHKのツィッターの「炎上?」で知った。→ 『ヘイトスピーチをまき散らすだけで、まるで何か世の中の役に立つことをやっている気になっているようなネット弁慶さんたちには、1度でいいから東北へ行ってボランティアでもしてきなよ、と言いたい。かなり本気で言いたい』このツィッターをネタにした日経BPオンラインのコラム、 小田嶋 隆「ネット弁慶が街中に現れた理由」 の文章が私には的を射ていたので、その部分をメモしておく。心を痛めている。 ……という書き出しを読んだ瞬間に、「なんだこの偽善者は」 と身構えるタイプの読者がいる。 ながらく原稿を書く仕事をしてきて、最近、つくづく感じるのは、若い読者のなかに、情緒的な言い回しを嫌う人々が増えていることだ。 彼らが嫌う物言いは、「心を痛める」だけではない。 「寄り添う」「向き合う」「気遣う」「ふれあい」「おもいやり」「きずな」といったあたりの、手ぬるい印象のやまとことばは、おおむね評判が良くない。かえって反発を招く。 彼らの気持ちは、私にも、半分ぐらいまでは理解できる。 この国のマスメディアでは、論争的な問題を語るに当たって、あえて情緒的な言葉を使うことで対立点を曖昧にするみたいなレトリックを駆使する人々が高い地位を占めることになっている。彼らは、論点を心情の次元に分解することで、あらゆる問題を日曜版に移動させようとしている。 若い読者は、そういう姿勢の背後にある卑怯さを見逃さない。 リテラシーとも読解力とも違う、不思議な能力だ。 なので、冒頭の一行目については、思っている通りの言葉で言い直してみることにする。 私は、心を痛めているのではない。私は、アタマに来ている。 あるいは「うんざりしている」の方がいまの気持ちに近いかもしれない。 私はうんざりしている。 』全文は→ http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20130221/244049/?mltこのコラムから「朝日新聞」が頭に浮かんだ。朝日は相変わらず中韓の視点でものをいい,軽佻浮薄で高所からの「いいかっこしい」の姿勢。どうでもよいことだが、先頃主筆だった若宮啓文が朝日を退職し、かの韓国の大学に移ったことは、なぜかネットで目にした。(若宮は竹島問題で「ちょんにあげたら」なんぞと無責任なことを言っていた。)その韓国は朴正煕・・・私は[ボクセイキ]と読んでしまうが・・・の娘パククネが昨日大統領に就任した。(ATOKでボクセイキと入れると変換するのには感激たした。パククネは未だ。)そしていつもながらの 『朴氏、麻生副総理に「歴史直視し努力」求める』うんざり。 ちょん韓国こそ歴史をねつ造せず、正しい歴史を直視すべきである。岡崎研究所 2012年12月13日(Thu) から抜粋。朴槿恵・韓国大統領候補のアジア政策 「正しい歴史認識」と対中認識の甘さ 「正しい歴史認識」と言うものを振り回されても困ります。歴史は科学であるよりも物語で、価値観を織り込んだものです。慰安婦の問題を含め、請求権問題は、完全、最終的に父親の朴大統領時代に解決されています。いまさら歴史問題を蒸し返すのは、日韓関係のためにも良くないでしょう。「従中離米」に走り出した韓国。 「恨」を生きがいとする鮮ひともどき。朝鮮が清時代の冊封国へ回帰するのはもう一歩。台湾は大陸中国から逃げてきた蒋介石の国民軍の非道で日本統治の良さを知った。鮮人は大陸シナの人民解放軍の非道で日本との併合時代を懐かしむだろう。日本が「朝鮮」の「ヘイトスピーチ」から解放されるのは目前。