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愛犬ジュンとのなんじゃもんじゃウォーク

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メモリー

2012.04.22
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カテゴリ:メモリー


28歳の頃、国替えを命じられた。

それまでの都内港区、神奈川県西部のテリトリーから、
都内キー局を主に、静岡以西ー北海道までの全民放を
担当せよとのこと。

TV測定器・・波形モニタ、ベクトルスコープ、テスト信号発生器・・などなど。
他の同僚よりは勉強していたつもりだが、少しビビった。

知ったかぶりを装い、営業に回る。
助かったのは「民放職員録」の存在。

アポなし飛び込みでも歓待してくれた。
会社が放送局では有名だったせいだろう。

ある朝、上司KUCに呼ばれ東海大学に池田先生という方が
お見えになるので彼だけはお前が担当しろという。

数日前にOY常務たちと一席設けたらしい。

事情を尋ねると、池田先生は日テレの研究部に在籍され、
退職して東海大学の電子工学科の教授になられたとのこと。
(後日、さらにOY常務に伺ったら池田先生は日テレ在職中に博士号を
とり、その後局内では煙たがられるようになってしまったとのことだった。)

挨拶に赴き、その後何度かお呼ばれされ、小間使いをした。

研究室で先生は【12.5Tパルス】の研究をされていた。

12.5T pulse

資料を紛失してしまっているため、WEBから無断借用です。
出典:(C) K.M.Lab 2005,2006 All Rights Reserved  
http://www.kmlab.co.jp/index.html
AVマニア必携から。

波形の左と中央を足すと右側の12.5Tパルスができる。

テレビは明るさや色合いを電気信号の振幅や、サイン波の位相に
変換して表現している。
TV機器や伝送路の出来不出来で、この信号が劣化し
画面での忠実な再現はできなくなる。

これらを試験するためTVテスト信号が数多く考案されている。

おなじみのカラーバーの信号は

colorBAR1 colorBar2
    
 同じく、WEBから借用: http://elm-chan.org/cc.html テクニカルノート


私は、12.5Tパルスはもう知り尽くされたものと思っていた。

それでも、池田先生は「お昼を一緒に食べましょう」と、よく誘ってくださった。
営業としての売上には直接結びつかなかったが、技術・人生の勉強で、
担当を命じられたと思い、感謝している。

平塚の学食でご一緒しているとき、私は先生に「大学は高校からすぐに
入学するのではなく、一度社会経験をしてから入ったほうが、勉学に身が
入るような気がします。」と、くっちゃべった。
先生は「そーですねー」と、あまり議論に乗ってこなかった。

後日、OY常務とその話をしたら、池田先生はまさに社会経験をしてから
東北大学で苦学されたんだと教えられた。((OY常務も東北大)


さてある日、北海道放送の柏倉部長から電話。

「12.5Tパルスについて質問がある。」「御社が出しているアプリケーション・
ノート記載のこのパルスのエネルギー分布の図が、低域も高域も同レベルに
なっているが、当方で研究したところ高域はおよそ半分位になっていまうのだが・・」

私は目が点。わからない!
質問できそうな人物は社内にはいなさそう。 池田先生に尋ねれば
よかったのだが、そのときは機転がきかず、なぜかOY常務のところに
泣きつていた。(しかしどうせ、OY常務もわからないだろう。)

ところがである!

OY常務は暇にあかせて、会社のミニコンピュータで池田先生と
理論的周波数ーエネルギー解析をしていた。
おもむろに引き出しから、その結果のハードコピーを取り出し、
見せてくれた。

OY常務は若造の私には無理だと、めったに出張できない札幌に飛んだ。


2年後、また国替え。
今度は、出身地の名古屋営業所。

広大なテリトリの引継ぎは、すべての顧客への挨拶回りはできず、しかも
当時民放以外にも東北・北海道の一般カストマも担当する羽目になっていた。


池田先生には電話で異動挨拶をした。
今思えば、どうしてご自宅の番号を知り得たのだろう?
ご令嬢が電話口に出られ、「父は亡くなりました。」

うーん・・・・・・・・・・・・・・

日テレで池田先生の話題を持ち出すと、ことさら信頼してくださる
技術職の方に多く出会った。ポカをやらかした時など軽く許されもした。

なぜか、いまでもフルネームで名前を覚えている。
池田辰雄先生。


20120422BOT






Last updated  2012.04.22 22:18:18
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2011.07.22
カテゴリ:メモリー
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<福浦から横浜港方面を望む 7.22夕方>



私はどうも良い子ぶって、安請け合いをしてしまう性格である。

今月も釣りクラブの総会時に、クラブのホームページの再開を提案され
酒が入っていたせいもあるが、8月までに復活する約束をしてしまった。

以前は無料サイトの容量はせいぜい20MBくらいで、写真をアップするのにも
随分気を使い、縮小・加工に時間がかかり、いくつかのサイトをリンクし、
タグミスチェックをするために膨大なページチェック。
苦労の割には、会員の訪問は少なかった。

で、やめた。
もっとも、個人情報保護の風潮が強まり、めんどくさくなったことが本音だが。


昨年は、学生時代の山岳部のOB会で当日の写真やら、古えの山行の
写真をWEBアルバムにする約束をして、OB会の写真しかアップしていない。
オマケに今年のOB会を幹事まで引き受けてしまった。

こういう性格を「貧乏性」とも言うらしい。


高校時代にもクラスも異なり、付き合いもなかったAから生徒会会長選挙での
応援演説を依頼され、安請け合いしたことが思いおこされる。
Aは目立たない奴だったし、それまで生徒会活動とは無縁の人物だった。

私はその気概に同感したのだと思う。また、当選するとは思ってもいなかった。
付き合いのあった副会長を務めていたCは、遅れて会長選挙に立候補してきた。

選挙後、Cは「本当は私に応援演説を依頼したかった」と、淋しそうにつぶやいた。

3年生になり、工業高校だったが私は進学を決め、生徒会活動からは身を引いた。
Cは生徒会議会の議長を務めることになり、Aとはうまく運営していった。

私は少し孤独感を味わった。

それなのに、安請け合いしてしまう性癖はいまだに治らない。



さて、遅ればせながらなでしこジャパンの優勝、おめでとうございます。
また、有難うございました。
延長戦後半での沢の同点ゴールでは、涙が出て止まりませんでした。

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戦後、水泳の「前畑がんばれ、前畑がんばれ」という、当時の日本に
自信を取り戻させたスポーツ選手の逸話を思い起こしました。

古事記の話の中でも、強い女性が幾人も出てきます。
今は曽野綾子という、強い女性の本を読み続けています。









Last updated  2011.07.22 23:43:10
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2010.12.24
カテゴリ:メモリー
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横浜・金沢・瀬戸神社


連日テレビの報道番組や、WEBマガジン(Nikkei BP,Diamond,etc.)で
就職難の現状を知る。

私はこのことに対して、若い方々へ何もできず全く無力である。 情けない。

国際的な学力低下についても、云々言われている。

口先であーだこーだと、言うことはできても何の役に立てようか。

私が社会に出るときも就職は厳しかった。
が、今は推し量れないほど厳しいようだ。

「技術立国ニッポン」などと酔いしれているうちに、追い上げられ
しかも理系離れが喧伝されてから久しい。

英語力の必要性は私が現役の頃から言われ続けていた。
(現状の英語教育が間違っているのでは?とも思うが。)

国語であれ、英語であれ基礎的な表現力・理解力、そして
論理力はどのようにはかっているのだろう。

携帯メールのような短文では、複雑な思考力は培われることはない。
論文でコピペを繰り返しているようでは、思考は停止する。



私が就職した頃のことを思い返す。

卒業間近まで決まらなかった。

航空管制官試験は視力で受験できなかった。
防衛技官を申し込んだら、アルバイト先の室長のところに身辺調査が
来たと、・・・室長は他にさがしてやるから防衛庁だけは止めろという。
他の研究室の方からは名古屋の上場会社Bで兄が役員をしているから
紹介してやると、厚意をいただいたが、頑なな私はいづれも断った。

2月頃に新聞公募の電子部品の輸入商社に決まった。

営業である。

「お前に営業が勤まるはずがない。」と、すべての人から言われた。

・ ・・・ この先は、いつかまた書く。


<今日・・・・ のおかず>

法事で田舎(渥美)の親戚行った時、色々食材をいただいて帰った。
でっかい白菜やキャベツ、ブロッコリに大根。あさり。うどん。・・・・

食べきれない。

特に白菜は、いつも1/4にカットされたものを買うが、
それでも10日ぐらいかかる。

スーパーでCook Doの「白菜のクリーム煮」なんてものを
見つけたので、本日チャレンジ。

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なかなかうまくできた。

それでもまだ、野菜は半分以上残っている。

ジュンも野菜を食べてくれれば・・・と嘆く。


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夕食はまーだ?という図






Last updated  2010.12.24 23:13:19
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2010.11.21
カテゴリ:メモリー
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2011.11.20 鎌倉天園への途上


大学のある調布でリストラ後、店を構えたSKの
尽力で、大々的に親岳会のOB会が催された。

卒業後は近しいものが、小規模に集まり近況を
話し合ってはいたが、今回は16名が集まった。

学園祭にあわせての開催。

当初の出欠回答は思わしくなく、やるきを無くしかかっていたSKだが、
次第に出席者が増え、旧甲州街道沿いの「気らく亭」で催した。

遠くは山口からかけつけたSG。

長野の民放に勤めていたIN、岩手で教授の鞭をとる
WK氏は残念ながら出席できなかった。

白髪、禿げかかった・・黒々・・の頭。
一発で判る方もいれば、「だれ?」という状況も。


企画のうまいSKは昔・現在の写真をPCに用意し、
店からプロジェクターを借り、スクリーンに映し出す。

昔話に花が咲く。

あっという間の3時間。

なつかしくて、話題が多すぎ3時間では終わらない。

仕事を抱えているものも多く、2次会は10名ほどか。
(私も残念ながら、帰宅した。)

映し出した写真の希望者も多く、SKはCD/DVDで配布の
約束をしたが、WEB上にアップロードして、さらに部員の近況
などの連絡板を創る約束は私が・・・・。

心を支えあう場の再構築である。


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20101121OB2.jpg



次回の開催は・・・・・

5年後・・・・「生きているかどうか分かったものじゃない!」

で、来年も開催することに。

幹事は・・・・酔った勢いで私が請け負うことに。

忙しいこっちゃ。

調布のこと、学園祭で開催した歌声喫茶「らんぷ」のこと、
南アルプス、北アルプス、中央・・・
卒業後、それぞれが登った海外を含む山々のこと。

書き連ねたいことが、頭の中をぐるぐる回る。

【親岳会】のHP立ち上げにあわせて、
ネタに困った時に思い出を書いていこう。







Last updated  2010.11.21 22:42:36
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2010.06.11
カテゴリ:メモリー

多くの知識をまとめ、自分なりのひとつの新たな知見結果を
得る方法にKJ法というのがある。

このKJ法は40年ほど前に、数学教授から余談として
紹介されたものである。

* KJ法(-ほう)は、文化人類学者川喜田二郎(東京工業大学名誉教授)がデータをまとめるために考案した手法である。データをカードに記述し、カードをグループごとにまとめて、図解し、論文等にまとめてゆく。KJとは、考案者のイニシャルに因んでいる。共同での作業にもよく用いられ、「創造性開発」(または創造的問題解決)に効果があるとされる。・・・・ Wikiから抜粋

当時、早速、新宿の紀伊国屋に出かけたら、B5やA5サイズの
カードが並べられていたので、流行ったのだろう。
(その後も、今でも重宝、利用されていると思う。)

MS-DOSは面倒だった。
MS-Windowsになってから、爆発的にPCが普及した。

マルチウインドウとは言っても、与党のマニュフェストのように、
期待はずれだった。


知識を凝縮した代表語をノートやカードにちりばめ、統合して
新たなものを編み出す努力をする。

基本的な発想はKJ法もWindowsも同じである。

しかし、なかなか創造-アイデアをひねり出すののは難しい。



そんなことを思い浮かべながら、Windows7の新しいPCを
用意してくれていた勤務先の社長Nさんには感謝している。
しかし、Windows7も前宣伝ほどはスピードは速くない。
セキュリティソフトのせいもあろう。

いつまでたっても、PCが使いこなせない私にも責任は重いが。




風呂でKJ法を思い出したら、20代の頃のことが色々浮かび上がってきた。
一浪しても学部試験は落ち、電通夜間短大に通うことにして上京。

アルバイトをしながら、学部への捲土重来を目指したが、体力のなさに
親岳会に入部。私は【ペースメーカー】で同期やら先輩に罵倒されながらも、
OB、先輩、同輩、後輩の人とのつながりに価値を見つけ、勉学はほどほどに
しかしなかった。(工業高校だったので講義に新鮮味を得られなかった。)

その中で新たな生涯の親友も出来た。

大学のあった、調布市。通算15年余りを過ごした。
今は横浜で7時半に出社し、8時に社長と朝のNHKドラマ【ゲゲゲの女房】を見る。

水木しげる氏が調布在住などとは全く知らなかった。
調布のあちこちを紹介するエンド画面が懐かしい。

親友はリストラ後、調布に戻り、奥さんと補聴器専門店を開業している。

彼には不義理をしている。

ジュンを連れて、一度訪ねてみよう。

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Last updated  2010.06.11 22:26:14
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2009.09.15
カテゴリ:メモリー

食べ物を口に入れるまでには事前の努力がいる。
生産者ではないので購入してから先の話である。
出来合いの惣菜は論外である。

野菜でも、肉・魚でも「調理」という作業がいる。
カップラーメンでさえ湯を沸かし、3分間我慢しなければならない。

【栗】
さて、過日釣魚の返礼に「栗」をいただいた。
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スナック菓子のように次から次に口に放り込むわけに行かない。
ナイフで切り、硬い皮を剥ぎさらに渋皮を削ってようやく口に入る。

ランニングの後のビールのように、悪戦苦闘して剥いた栗は美味い。

以前、「くり剥いちゃいました」という商品があったが、怠惰な人間の
ためにこんな商品まで売り出すのかと情けない思いがしたことがある。

が、それにしても栗を味わうには一苦労する。

私は食べ物は大体において、焼いたほうが好きである。

栗は昔、知っていながら大丈夫だろうと栗に穴も空けず
蓋をして焼き栗に挑戦したが、爆発して見るも無残な状態になった。

栗は天津甘栗が一番。爪で殻に刻みをいれパカッと割れて
渋皮も一緒にとれていると嬉しくなる。

残った栗は明日、焼き栗にしてみるつもり。

【落花生】
栗をいただく前には、なま落花生が店頭にあったので思わず購入。

つまみで買うバターピーなどは何故美味くないのだろう。
ほとんどが原産国:中国だからとは思いたくないのだが・・・

殻から出して焼いて食べようと思った。
(小さい頃の冬、火鉢の炭の近くに一粒づづ埋めて焼いて
食べた落花生こそが本来の味をしていたと思い続けている)

ところが、火鉢はあるが「灰」がない。
日曜大工センターに探しに行こうか?

が、煮たサンプルを少々店からいただき、内心「えー!」と
感じていたが、食べてみると以外に美味い。
結局、塩茹でで食べた。

もすこし食べたい。
もう2-3袋買うつもりで2日後に寄ったら、売り切れ。
取り寄せを依頼して飽きるほど食べた。


【サトウキビ】
両親の実家が双方とも愛知・渥美で、幼い頃はその実家から
さつまいもやら、落花生、切り干しいも・・・などなどが送られてきた。

夏には菰に巻かれたサトウキビが・・・
(冬にはこれで作られた黒砂糖・・)

これも甘い汁を口にするまではひと苦労だった。
幼い歯で皮を剥ぎ、ようやくあらわれた白い芯を
口に入れ甘い砂糖汁をかみしめる。

いまでは手に入らない!?


幼い頃のなつかしいおやつの思い出にふけり、秋を感じる。

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Last updated  2009.09.16 00:59:43
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2008.09.03
カテゴリ:メモリー
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暑さをしのぐ工夫。

風鈴の音は秋の虫の鳴き声にさえ風流を感じる日本人の、
今様に言えば【エコ】だろう。
エコには【エコロジー】と【エコノミー】が含まれると思う。

以前ははいくつも風鈴を買ったが、涼しさを感じられるものは少なかった。
場合によっては音にイライラすることもあった。

幼い頃、買ってもらった風鈴は涼しかったことを思い、〇軒長屋で
過ごした昔を思い起こす。


昭和32年頃、TVが出回り始めた。
TVのある家は金持ち。今より【格差】は大きかったと思う。
それでも金持ち・地主・家主は近所の人たちに広間でTV放送を見せてくれた。

ある夏の夜、【ヨツヤカイダン】があるからと兄たちと観に行った。
カイダンは【階段】と思い込み、???と期待していた。

小学2年生だった。怪談話は紙芝居で【怪猫】(鍋島藩の話)などを
知っていたが、初めての四谷怪談は本当に怖かった。

池に浮かぶ戸板がひっくり返り、そこには殺されたあんまが目を剥き、
・・・蚊帳をそばに髪をとくお岩さんの櫛には・・・・そして次第に額・眼が
膿んでくる、その形相。

涼しいどころの話なんぞではない!
怖くて怖くて目を覆った。(TVといえども役者と目が合うと・・ヒーという感じ)
自分の家だったら蚊帳に入って布団をかぶっていただろう。

この話以前には・・・
父親は風呂桶を買ってきて一人で家風呂を裏に作った。
部屋と風呂場は少し離れていて、その間は暗い。

兄たちと一緒に入っていた。
私があがるとき、いつも兄は「ニャーオ」と化け猫の
鳴き声を真似して、怖がる私をおもしろがっていた。
(四谷怪談の前には、入江たか子さんの怪猫映画を見ていた)

今では「見たなー」というセリフは笑い話に使われる。

平成20年の今は【怪談】で涼しさを感じる人は、天然記念物だろう。

誰でもよかったという通り魔事件。年金不正。近隣諸国での弾圧・・・
【今の怖い実話】は、涼しさどころか憤りを感じ余計に熱くなる。




*ジュンとの散歩道の雑草は年2回、市の指示で業者が刈り取ることが
わかったが、その前にまたまたうざったく茂ってきた。
一服するベンチ周りも雑草が休憩を妨げる。

20080903BOT.jpg


せめてベンチ周りだけでもと、一足先に草刈りに出かけた。
京急ハウツで柄の長い草掻きを見つけたので、今年は腰を痛めることも
少ないだろうと、6時半に出かけたが・・・

暑い!!

2箇所6つの石ベンチの草を刈って止めた。
氷を入れた冷水は家で飲むより美味かった。


天気予報はピンポイント地域の予報が見られるようには
なったが、この気候変動であまり当らなくなった。
自己の直感を信じて涼しい日に再開することにする。








Last updated  2008.09.03 14:36:17
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2007.12.05
カテゴリ:メモリー
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最後の3枚目着。ジュンのスタジャン。


30年前はアパート住まいで、犬猫など動物が飼えないためベランダに花鉢を置き
1週間の出張から帰ると枯れている生活だった。

20071205-1.jpg ミニ水仙他


本格的に園芸にはまったのは、転勤で地元名古屋に帰りマンション住まいになってから。
理由は数ヶ月で成長し実の成る植物に対し、至らない自分を戒めるため。

20歳の頃は1000円を下らなかったプラスティックのプランターは、随分安くなっていた。
バルコニーを埋め尽くし、北側の階段端にも鉢を置き、それでもスペースが足りなく
手摺からぶら下げた。

営業所内にも鉢を置いたが、花は空調での乾燥のためか咲かせるのが難しく、
観葉植物を埋め尽くした。

いつしか、社内でも園芸狂いしていることで有名になってしまった。


洋ランにはまったのは草花に飽きはじめた頃、トヨタの富士研究所での展示会に向かう
途上、浜名湖サービスエリアでシンビジュームを受付に置こうと、自腹で購入してから。

ベゴニアにも凝ったが、種類を集めるのが困難で洋ランに集中していった。

シンビジュームは育てやすいが場所をとる。
その後はデンドロビウムに移り、できるだけスペースをとらない洋ランを集めた。
(花の終わった茎を切り、ミズゴケ植えで100鉢位に増やした頃(at 東京)、
再び仙台へ転勤。この苗鉢は本社、多摩、大宮の営業所へ休日に転勤挨拶状と
ともに置かせていただいた。皆不思議がったが、大宮ではその後花を咲かせてくれて
感激した。)

えびねなど和蘭・東洋蘭にも眼が移ったが地味で、和室には合うだろうが、
バルコニーや洋間には合わない。

そのうち、胡蝶蘭に眼がいくようになったが当時は¥万オーダーで手が出ない。

安くなってきたのは園芸家の努力と、環境慣れで育てやすくなったのだろう。




昨日はジュンとの散歩途上、白いシクラメンを購入し金沢八景に戻ってきたら、
小さな花屋の店先に「来年用」と札を張り、花の枯れた胡蝶蘭が叩き売りされていた。
3Kg位有りそうだし、荷物になるのであきらめた。

20071205-2.jpg   20071205-3.jpg
   

今日は車の定期点検中ジュンと周りを散歩し、帰宅後、子鳩が飛べるようになったの
か、居なくなったのでバルコニーの整理・清掃。

ジュンがつまらなさそうに、まとわり付いてくる。

思い起こして「もし売れ残っていたら買ってしまおう」とショルダーバッグ持参で
ジュンと八景へ散歩。

やはりない!・・・・ と、通り過ぎようとしたら、端にある!・・・・ 買った。

胡蝶蘭は花茎を節で切れば、またそこから花茎が出る。来春のお楽しみ。

整理したバルコニーはまたジャングルに戻るだろう。







Last updated  2007.12.05 20:46:10
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2007.09.05
カテゴリ:メモリー
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昭和33年、「コロの物語」というラジオドラマを聴いていた。
また、並行してこの漫画も読んでいた。

昭和34年、新聞配達のアルバイトをしていた兄が仔犬を
拾ってきて、兄弟で父親をくどき、飼う事になった。
名前は勿論コロ。
数ヶ月で亡くしてしまった。

昭和35年、級友と休み時間に校内をうろうろして、
給食調理場付近に行った時、女生徒が仔犬をあやしていた。

腹の中で「早く仔犬を置いてどこかへ行け」と念じていたら、
調理場のおばさんが出てきて、「誰かにもらわれていくまで、
ここにいるんだわさ」と女生徒に話しかけている。

シメタ!

次の休み時間に級友と調理場に急行。
こんどは仔犬を抱くことができた。

ドキドキ、ドキドキする。
またそのおばさんが出てきて、
「いいねー、みんなに可愛がられて」

緊張が高まる。
思い切っておばさんに、「この犬、いただけませんか」

となりに座っている級友も、おばさんも突然の申し入れにビックリした様子。

一歩も引くまいと、おばさんの顔をまじまじと見つめていた。
こころなしか、淋しそうな顔をして、
「いいよ、放課後にとりにおいで」

やったー!

のこりの授業は気もそぞろ。
長い長い時間が過ぎ、ようやく調理場へ。

おばさんは給食の脱脂粉乳をビニル袋に、
そして小屋にとマーガリンの木の箱を用意してくれていた。


両親とも共働きで、帰宅するのは私が一番。
2代目コロは尻尾を思いっ切り振り、立ち上がって出迎える。
毎日毎日が楽しかった。

夏、蚊帳で寝ていたある朝、
寝起きのきわめて悪い私の頭に何かが覆いかぶさってくる。
眠くて何度も何度も払うのだが、しつこく蚊帳を通して顔に乗ってくる。
そのうち目が覚めた。

母にくさりを外されたコロだった。

「コロが上にあがってきてる」と叫んだ。

ようやく寝床から出た私を母は笑っている。
その後も、起きださないとコロをしかける母だった。




近所にはさしものやの放し飼いの無愛想な黒い犬が、
我がもの顔で闊歩していた。

コロがそのうち身篭った。

仔犬が生まれるのが待ち遠しかった。

ある日、聞きなれないコロの一声。

そっと覆いを開け小屋を覗いた。
生まれ出る仔犬の身体をしきりに舐めている。

父の親友の犬は頻繁に覗いていたら人間を警戒したのか
仔犬を食べてしまったという話を聞かされていたので、
あまり覗かないようにした。

3匹だった。オス2、黒のメス1。

親犬が判った。

コロは人一倍食べるようになったので、食器を古い洗面器にした。

ある日、いつものように味噌汁ぶっ掛けごはんを授乳中のコロに与えた。

立ち上がり、乳房に吸い付いていた仔犬たちは2匹が振り落とされたが、
執拗にぶら下がっている仔が1匹。まさに宙ぶらりん。
何かの絵で見たような光景だった。

コロのおなかは授乳のために毛がすっかり抜け落ち、
仔犬たちの爪で傷だらけ。

コロが可哀想な感じもしたが、親子それぞれの「強さ」に
何かを教えられたような気もする。

仔犬たちはそのうち目が開き、学校から帰ると繋がれている親を
尻目にいっせいに私に群がってくる。

父親になった気分。

「離乳食」なぞ考えも及ばない時代だったが、
仔犬たちはある日突然コロの洗面器に首を突っ込むようになった。
その瞬間威嚇のうなり声をあげたが、すぐに一緒に食べ始めた。

4匹も飼うわけにはいかない。
里親探しを始めた。

一番のお気に入りの仔はコロを学校から引き取ってくるときに、
手伝ってくれた別の級友へ。

黒の雌は玄関先に親子で居させたら、「譲ってください」と
同学年らしい見知らぬ子供が申し込んできた。
少し戸惑ったが了承して引き渡した。

残りの1匹は里親探しはしなかった。

が、くだんの黒犬の飼い主である指物屋の爺様が、饅頭を持って
「どうしても譲ってくれと」訪ねてきた。
警察官をしている娘婿がほしがっているという。
そのお宅は私も知っていたので、爺様は好きではなかったが譲ることにした。

その後、所在のわからない黒は別として、何度か仔犬たちに会いに
行ったが、狂ったように喜び、興奮しておしっこがこちらにかかる。
仔犬たちと同様私も嬉しく、自分も尻尾がほしいくらいだった。


昭和36年、仔犬を生み、すっかり成犬になったコロは、
一代目のように死ぬことはないと信じていた。

放し飼いが多かった時代。
若いコロは追いかけられて必死に逃げ帰っていた。

ある日の夕方、血便をした。
苦しくてのたうちまわったり、悲惨だった。
全く急な症状。
現在なら動物病院へ連れて行くはずが、安易に受け止めていた。

その日のうちに小屋の中で亡くなってしまった。

気づいたのは母。

「コロが死んでるよ」と呆然として私に伝えた。
私は「またー、母のことだから見間違いを・・」と小屋を覗いた。

立ちすくんだまま、涙があふれだしてきた。
大声をあげて泣いた記憶はあの時だけである。

母も泣きながら、線香を買ってきた。

夜遅く帰宅した父と、その日のうちにコロを菰に巻いて、
違法だが近くの庄内川に流しに行った。

「仮死状態」という言葉をそのころ知っていた。
あきらめきれない気持ちが、「コロは仮死状態だったんだ。
いつか絶対もどってくる」と、自分を慰めていた。

呆然と過ごす日々の中、コロは何回か帰ってきた。

夢の中で一緒に過ごし目が覚めた時には、
今度夢で会ったら「たたいたことを詫びよう」と思いつつ、
会うとうれしくて詫びることも忘れ、次第にコロは遠ざかっていった。


いつも拝読させていただいている、一歩様からのコメントで
氏の愛犬の名前が同じくコロだったことを知り、書くことを思いつきました。
有難うございました。



追:「コロの物語」の情報はWEBで見つけ、
原作は乾 信一郎氏でNHKで放送されていたとのこと。
また、漫画はなんと「青春残酷物語」で有名な永島慎二氏が
描かれていました。残念ながら復刻はされていないようです。

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Last updated  2007.09.05 13:09:04
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2007.08.18
カテゴリ:メモリー
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NHKの終戦特集スペシャル番組を見ていて感嘆するのは、
兵士が皆日記を綴っていること。
小さな手帳に余白なしにびっしり書き込んである。

徴兵された父もおそらく記していたことと思う。
私が幼い頃も書いていて、母が盗み読んでいたことを覚えている。
晩年は母の看病日記、亡くなってからも日常の日記を書き連ねていた。

人が日記を書き残すことに感嘆していて、二つのことを思い起こした。

ひとつは仙台に赴任していたとき、お世話になっていた東北大のK教授から
若い頃の日記のような研究日誌・メモを見せていただいたこと。
(アポもとらずに研究室を訪問したら、あと・・・と指を折り始めたので
そのとき初めて退官間近であることを知り、急に淋しさが込み上げた)

ノートには戦闘機を射落とすための砲弾に仕込む「真空管」
(名前は忘れた)の詳細が手書きで描かれていたことを覚えている。
(私はアメリカが戦中にそんな砲弾を開発したことを偶然知っていた)
ちなみに教授は「量子化学」の先生で、研究室にあるミニコンの
プログラムも自ら書くほどで「もっと勉強せい」とよく叱咤していただいた。

素直に父の日記のことを話し、なぜ皆日記をつけるのかを尋ねた。
「昔はそういう教育を受けたんだろうな」・・・・
返事に困る質問をしてしまったようだった。


二つ目は私の昇格試験(なんと入社試験のように「国語」があった)での
読解力テストで「日本人は記録魔である・・・」という一文があり、「確かにそうだな」
と、試験を忘れるほど例題文と問題を考えた方に感心してしまったこと。


私は飽きやすく日記につきものの三日坊主の部類に入るが、
このブログが続いているのは暇だからだろうな。
あるいは、いつかは死に別れるジュンのアルバムを残したいからかも。

過去の日記はどこかへ霧散してしまったが、仕事で記録した予定表が残っている。
極々簡単なメモだけだが、見るとなつかしい客先と打合せ内容がよみがえる。







Last updated  2007.08.18 21:21:30
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