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カテゴリ:歴史コミュ ~奈良時代
大友と十市の間の皇子葛野王は本来なら天皇になる人物だったのにまだ幼いうちに父も母もなくしてしまいます。葛野王が日本書紀に再び登場するのは持統帝の後嗣を決める議場でのことです。
自分の権利を主張してやまない天武の息子(天智の孫でもありますね)弓削皇子を正面から見据え「皇位は直系長子相続が望ましい。誰が継ぐかはっきり決まってれば自分の父と母のような悲劇は起こらないだろう」と発言したと伝えられてます。この発言がきっかけとなって次の天皇はめでたく持統の孫である文武天皇が即位することになります。このくだりが日本書紀にあるのは大変不思議。天武の正当性を疑うような記述ですよね?? 一方、高市皇子は十市の死後、天智の娘である御名部皇女と結婚します。 (天武の息子達の正妻はみんな天智の娘です。) そして設けた子供が長屋王と鈴鹿王です。この長屋は草壁皇子(後に書きますが持統のただ一人の息子で本来なら登極するはずの人物でした。この草壁の地位を守るために持統は律令制を確立しました)の娘吉備内親王を正妻とする皇室のホープでしたが藤原家によって謀反の罪をきせられ自害します。 何故??この頃、藤原氏は聖武天皇の皇后に不比等と県犬飼三千代の娘である光明子の立后を画策していました。この事件に遡ること数年前、聖武天皇が母親である藤原宮子(この女性も不比等の娘です)に尊号を贈る時大夫人を撤回させ皇太夫人に勅を変更させた経緯があります。それで長屋王が邪魔だったんですね。この事件からほどなく光明子は立后して日本の歴史上初めて臣下の娘として皇后になった人物となります。 ☆ここで万葉集でティータイム☆ 高市皇子は天武の娘である但馬皇女を妻にします(当時は一夫多妻制ですね←誰かうらやましい!とか言いませんでした??) この但馬と同じ天武の息子穂積の歌も万葉集に残っています。 但馬の歌 秋の田の穂向きの寄れる片寄りに君に寄りなな言痛かりとも 高市の急死後但馬もほどなく亡くなります。(高市には毒殺の噂も残っています。) 但馬が亡くなった時穂積の詠んだ歌 降る雪はあはにな降りそ吉隠の猪養の岡の寒からまくに 次回は悲劇の人大津皇子・大伯皇女に触れたいと思います。 と、明日は飲んで帰る!予定なので歴史コミュニティはおやすみします。 昨日のjasmintea日記です 今日のjasmintea日記です お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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