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2005.01.31
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何だか書きたい事がいろいろあってすっかり間があいてしまいましたが、天武天皇と大田皇女の2人の子供の話をします。
と、その前に、、とりあえず「歴史コミュニティ」と称していますが学校で勉強するような歴史ではなく、わからないことを勝手に推理したり、人物や出来事にスポットをあてコラムのようにしたいと思っていますので「あまり歴史は…」とおっしゃる方も読んでみて下さいませませ(^_-)ネッ

次の歌は大津皇子が謀反をきせられて詠んだ歌です。

ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ


大津・大伯の母である大田皇女(天智天皇娘)は後に天武の皇后となり、天皇となった持統と同母姉妹で持統より先に天武に嫁ぎます。天武が天皇になった時点で本来なら皇后は大田、皇太子は大津になります。でも大田は若くして亡くなりこのことが後の大津とその姉大伯の悲劇となります。
成長した大津は「懐風藻」の記録に残すところによると文武に秀で容姿端麗な好青年で人望も厚かったようです。それに比べると皇太子草壁(しつこいですがこちらは持統の一人息子ですね)はひ弱で皇太子たるべく人物には程遠かったようです。
大津の姉大伯は壬申の乱の勝利のお礼として戦勝祈願をした「伊勢神宮」に神様に仕える斎王として遣わされます。これは天智の息子と結婚した場合、大津の勢力が強くなる事を持統が畏れたため、という見方もあります。持統にとって大津は我が子草壁の行く先を邪魔する存在だったんですね。
天武が病を得、重病になっていくと大津の身辺は慌しくなります。
そして父帝の死後、彼の友人である「川島皇子」の裏切りの告発により謀反が発覚し死罪を賜ります。この時連座したという事で同じく天武の息子、忍壁皇子と磯城皇子も罪に問われますが軽い処分ですんでいます。本当に謀反があったなら一人だけに責任を課すことは考えにくいですよね。
そして大津が亡くなったあと姉大伯は伊勢神宮の斎王の任を解かれす。

大和へ戻る途中に詠んだ歌
神風の伊勢の国にもあらましを何しか来けむ君もあらなくに 

そして二上山に大津の屍を移した時の歌
うつそみの人にある我や明日よりは二上山を弟世とあが見む
磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君がありと言わなくに 
こうして我が子の敵を葬った持統ですが(邪魔になるものはすべて潰した父天智帝に似ていますよね)大津の死後まもなく我が子草壁も亡くなり自分が登極し孫である文武の成長を待つ事になります。

☆ここで万葉集でティータイム☆
これは大津が石川郎女に送った歌です。

あしひきの山のしづくに妹待つと我が立ち濡れぬ山のしづくに

万葉集を拾ってみると当時の人の気持ちが伝わってきませんか?
今日のjasmintea日記です





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Last updated  2005.01.31 20:47:27
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