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2005.02.09
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高松塚古墳壁画
昭和47年、高松塚古墳が発見されてから30年以上の年月が経ちました。
未だこの墓の主はわかっていません。
主なものとしては
天武天皇皇子説
・高市皇子
・弓削皇子
・忍壁皇子
石上麻呂
百済か高句麗の王族
等が上がっています。

これは本当に歴史のロマンとして楽しめますよね!
極彩色壁画に囲まれ眠ってる人物はこのページでもお話しました天武天皇系皇子の哀しい末路と関係あります。
科学的なことはわかりませんのですっかり割愛!
時代的なことを言うのであれば持統天皇以降は皇族は火葬にしたのでは?と思いますので
持統が亡くなった以降ははずして良いかと。(忍壁皇子は持統よりあとに没しています)
そしてやはりあの極彩色壁画、四神図や星宿は皇族以外にはあり得ないのでは??
との勝手な思い込みで残ったのは高市皇子か弓削皇子です。

ちなみに私の愛読書である梅原猛さん「黄泉の王」では
被葬者の条件は(1)天皇、皇太子、親王など極めて身分の高い人物
(2)築造年代は710年以前
(3)反逆の皇子と推定しています。
(興味のある方はぜひ読んで下さいね)
(3)の反逆の皇子、この古墳は鎮魂のため、怨霊封じのための墓であると述べています。
弓削皇子は文武天皇の皇后である紀皇女と恋愛関係にあり(万葉集に相聞歌が残されています)抹殺されたのではないかと。日本書紀には文武天皇の皇后が紀皇女だったという記述はありません。
が、即位したら皇室出身の皇后を立てるのは慣習でしたからこれもおかしいことです。
日本書紀は持統の後嗣を決める会議で弓削はわがまま三昧、ごねまくった挙句、壬申の乱の敗者である大友皇子と十市皇女の忘れ形見の葛野王が一喝されて帝位を諦めたと散々な書き方をしています。
弓削を巡る何かがあって、高松塚で鎮魂せざるえなかった‥
と考えてもおかしくありませんよね。
弓削皇子に関する万葉集の不思議は天武の子供達 ☆ここで万葉集でティータイム☆をご覧下さい。

そして高市皇子は急逝が毒殺説の根拠になったり、十市のなきあと… で書いたように息子の長屋王の悲劇などで霊を鎮める必要があったとも言われています。

石上麻呂については今、物部氏に関して面白い本を読んでいます。
この本を読む前は、いくら重臣だからと言ったって臣下がこんなお墓に入れるわけないじゃん!などと思っていましたがもしかすると石上麻呂もアリかな、と最近は思っています。この本の感想と同時にお話させて下さいね。


頭部がない遺骨、、顔が剃り取られた玄武、、ここで眠るのは誰なのでしょうか??





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Last updated  2005.02.10 11:23:46
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