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カテゴリ:人情話
駿河への交通の要路である、大宮城を押さえた信玄はいよいよ上洛の意を強く持つ。その背景には、以前から自分の体を蝕んできた労咳の影がまた忍び寄り、自分の身がいつ倒れる事になるか分からない事情があった。 ゆったりと戦略を練って、それに従ってじわじわとチャンスを作り上げていくという、従来の手堅い信玄の手法では間に合わない所に来ていた。駿河侵攻の際に苦しめられた、徳川と北条の盟約による包囲網に手を焼いていた信玄は、ついに小田原攻めを決意した。 永禄12年9月信玄は小田原侵攻作戦を開始した。約2万の大軍が碓井峠を通って関東に押しよせた。これを迎え撃つ北条氏政軍は、信玄が小田原攻めと見せかけて、駿河に進撃すると読んでいた。そのためにすぐには軍を動かさず、武田軍の動向をかたずをのんで見守っていた。 武田の大軍は北条の支城には目もくれず、一気に北条氏邦が守る武蔵鉢形城に押し寄せた。氏邦は小田原に至急応援の報を送った。これにより初めて氏政は武田軍の真意を知る事となる。 氏政は小田原籠城を決め、城外居住の武将たちを家族ごと籠城させた。信玄はにわかに鉢形包囲網を解き、八王子に転進し、勝頼を総大将として5日間にわたっての滝山城猛攻で落城寸前に追い詰めた。 だが信玄はまたしても、このまま小田原に転進し小田原城を包囲した。一日の休養の後、10月2日、小田原城の外郭蓮池方面に向かっての攻撃を開始した。一方的な攻撃を仕掛けた後、10月5日は突如包囲網をまともや解き、鎌倉に行くと見せかけ、平塚から厚木に向かって北上した。三増峠を通って甲州へ帰るためである。 信玄は北条を攻め取る事よりも、徳川と組んだ北条に猛省を促し、武田軍強しの印象を強く植え付け、再び武田と和睦・同盟を将来結ばせることを狙いとして、この戦を起こしたのであった。 2万の大軍が引き上げる途中を、三増峠に於いて北条氏照、氏邦兄弟が迎撃した。峠のいただきで待ち受ける北条軍と、荷駄隊までを同行して峠を登る武田軍との激戦は、これも最後には武田の大勝利に終わる。 甲府に帰還の翌日、信玄は勝頼や主だった武将と相談し、駿河侵攻を相談し、一月後に実行を決めた。今度は北条にくさびを打ち込むために、北条新三郎と北条長順兄弟が守る蒲原城を第一攻撃目標と定め、12月6日に勝頼総大将として一日で攻め滅ぼした。 駿府の府中に攻め込んだ信玄は、すぐには攻めず、調略を用い、城を守っていた今川家の家臣岡部正綱を降伏させ、侍大将として迎えた。こうして信玄は念願の府中を掌中にし、駿河は北条と、武田と、徳川が分割支配する地となった。いよいよ信玄の上洛の強固な拠点が手に入ったのであった。 四代目天中軒雲月氏の「武田信玄」は謙信との川中島の一騎打ちで終わる。だから、この部分は直接的には口演とは関係ない所である。ここからは、まさに信玄の光と影の部分。誰もが味わう人生の終末への、序章となる。 今は第3巻の69ページ。これからは最後の「山の巻」に進む。信玄の人となりをじっくりと味わって、口演の随所に生かして行く事となろう。
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Last updated
2012.12.12 20:39:15
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