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お休み處  桐風庵

紋次郎 2

関わりござんせん
「あっしには関わりねえこって」は、関わってもどうにもしようがない諦観だということは以前に書きました。そしてこれは処世術でもあるのです。それも究極の処世術として。どこぞの旦那が金儲けした、それが自分とどういう関わりがあるというのか?「関わりござんせん」
どこぞの彼氏と彼女がくっついた、自分と何か関係があるのか?「関わりござんせん」誰かが濡れ手で粟でいい思いをしようと人も羨むような恋愛をしようと自分のことでないことに悶々とするなんて馬鹿げてます。「関わりござんせん」私は中学生の時、教室で周りから完全に無視されたことがあります。いわゆる「シカト」というイジメの一種ですね。そりゃ始めは辛かったですよ。こうなった原因は自分にもあるのかもしれないけど、でも俺は俺だし周りの奴らは奴らで勝手ににやればいい。「関わりござんせん」ってことで放っときました。元々ひとりで野山を駆け回ってるのが好きな子でしたからね。すると周りの奴らの方が居心地悪くなったのか近寄ってきました。放っときゃ時が解決してくれるもんです。私のこれまでの人生ほとんどが「関わりござんせん」で切り抜けたようなもんです。それは泰然自若などという立派なものではなく、あくまでも「関わりござんせん」です。我々の世代は「シラケ世代」なんて言われました。それでも「情」というもんは残ってたんじゃないでしょうか?今は更に進んで無機質ともいえる子が多いように思います。そのような薄気味悪い子らに情が通用するものかどうか?こんな時代だからこそ「関わりござんせん」が有効なのですよ。こっちも関わりたくないし若者の方にも世間を気にするな関わるなと言いたいです。
時を経て、柴田恭兵が「関係ないね」と言ったり、篠原涼子が「それが何か?」と言ったりしました。「そんなの関係ねえ!」という人もいましたね。でもやはり一番しっくりくるのが「関わりござんせん」です。 2011.1.2





貧困
「やい、紋次郎!この婆アはな、痩せこけた餓鬼の時分のおめえに何度も、粥の残りや芋のシッポを食わせてやったことがあっただ。その度におめえは、涙を浮かべてガツガツと喰らいやがった。それが、何でえ!見も知らねえだの、通りすがりだのって・・・。いまでこそ行方知れずになってこの土地にはいねえが、おめえの親兄弟だって昔は何かと村の衆の世話になっていただあ。ひとりで生きのびて来たみてえな、でけえ口を叩くんじゃあねえ!」―上州新田郡三日月村―
貧困はよくありません。粥の残りや芋のシッポぐらいで恩に着せられるんですから惨めなもんです。ひもじい思いをする、恥辱を受ける、人を怨み世を呪う。何一ついいことがありません。世を怨むのはまだ元気がある方です。そのうち何も考えられなくなりますから。衣食足りて礼節を知る。やはり最低限の衣食住は必要です。それがないと何も始まりません。文化的な生活など夢のまた夢。世界中にいるストリートチルドレン。胸が痛みます。紛争地域では必ずこういった極貧の子供たちが駆り出されます。主義主張や宗教が戦争の大義名分になることが多いですが根底は「食い物」です。
まずは生きること。そして生き続けること。後世に残る仕事をしたいだとか作品を造りたいなどというのは「おまけ」みたいなもんですな。銅像が建つような偉人になったところで時代が変われば銅像は引き倒されぶっ壊されてハイお終いてなもんですわ。レーニンやフセインみたいに。芸術作品を創造しても何十年何百年後に残るものは稀です。そう考えると何が最も尊い行いなのか?それはただひたすら生きること。自分の生を自分らしく全うすることこそが尊いことのように思えるのです。私は今、世間でいうところの裕福ではないですが、それでも子供の頃を思い出せば充分すぎるほど裕福です。そして自分が生きるために生きる。それで幸せ。ほんのちょっぴり世のためになればもっと幸せ。これでいいのだ♪ 2011.1.3





言い訳なんぞござんせん
「生きている限り、あっしに言い訳なんぞござんせん。だから人様の言い訳も聞きたくねえんでござんすよ」―念仏は五度まで―
私が中学生の時です。教室でおとなしくしてる私に対して悪口雑言を吐く者がおりました。ウザイので私は奴のケツを蹴飛ばしてその場を去りました。そこへ私の背中めがけて奴は飛び蹴りを食らわせて来ました。こうなると殴り合いをやるしかありません。ドタバタと大きい音だったので隣のクラスの先生がやって来ました。すると奴は突然うずくまり「正当防衛です!」などとヌカすのです。飛び蹴りしといて正当防衛もないもんですが、とにかく一方的に私が悪モンってことで担任の先生にこっぴどく怒られました。私は一切いいわけをしませんでした。格好つけようと思ったのではなく、ただ単に面倒くさかっただけです。奴は秀才の部類に入る生徒でした。今はどのような地位に居るのでしょう?。その後もこの調子で上手いこと世渡りしてたのでしょうか?追跡調査をしてないのでわかりませんが。
言い訳は見苦しいものです。仕事でのミス、不出来、遅刻、等々。プロは言い訳をしちゃいけません。プロスポーツでも一流の選手は言い訳などしないもんです。でも良い言い訳もあります。笑いを誘い周りが和むようなものはいいですね。森繁久弥が遅刻してきた新人に「もっと気の利いた艶っぽい言い訳をしなよ。女が離してくれなかったとか」と言ったそうで。シャレてますな。
言い訳しないのはカッコイイことですが、そうもいってられない場合もあります。日本もアメリカ並みの訴訟社会になりつつありまして、やれ慰謝料だ損害賠償だとなれば弁明しないわけにはいきません。何百万何千万と吹っかけられますからね。ユスリ屋タカリ屋なんかに払いたくないですよ。ややこしい世の中になったもんです。それでも紋次郎さんなら言うでしょう。「あっしに言い訳なんぞござんせん」 2011.5.3





歩くために歩く
私はよく山道を歩きます。取り立てて登山が好きというわけではないのですが森林浴は好きですね。緑の中の澄んだ空気ときれいな水。そんな中を汗をかきながら歩く。足を止めれば真の静寂。体の中の悪いものが全部出て行く感じ。山頂に到達した達成感と、この浄化された感じが忘れられなくて登山を続けています。普段の生活では酒もタバコもやる私ですが山に入る時は持ち込みません。だってこんなにおいしい空気と水があるんですから。これに勝るものはありません。コーヒー沸かして飲んでる人いますけどそんなの目じゃないですね。水だけの方がおいしいです。
昔の偉い哲学者は歩きながら思索をしていたようです。また、科学者は散歩中に大きなひらめきがあるといいます。歩くことが脳の働きにどういう影響があるのか知りませんが、とにかく何らかの関係はありそうです。私が歩くときは何も考えてません。百里千里を歩いても歩くだけでは能がないという歌の文句がありますが。
紋次郎さんもよく歩きます。特に目的があるというわけではなく歩きます。移動することが目的といえばそうなんですが。ただあてもなくひたすら歩き続けます。お釈迦様の弟子が尋ねます。「私たちは何故何のために歩き続けるのでしょうか?」すると、お釈迦様は答えます。「歩くために歩いているのだ」もちろん布教のため歩いてたのでしょうけど、それと同時にお釈迦様は歩くことそのものを楽しんでたのではないでしょうか。「歩くために歩く」は「生きるために生きる」に通じます。つまり、お釈迦様は生きることそのものが大事なのだと言いたかったのではないかと思えるのです。
私は何も考えずに歩いてますが紋次郎さんは何か思索しながら歩いてるのでしょうか?そうなると紋次郎さんが哲学者以上の行者に思えてならないのです。2011.5.13





意地と誇り
日常生活の項で殺生の罪深さを述べました。紋次郎もこれまで随分と殺戮を繰り返してきました。降りかかる火の粉をはらうためです。それも渡世人が相手のときだけですね。殺さなくてもと思うこともありますがヤラなければヤラれてしまいますからね。それと意地というものではないでしょうか。ヤクザは男を売る稼業なんてことをいいます。ナメられたらこの稼業やっていけません。この世界で生きていくしかない者同士にとっては、やはり殺るか殺られるかになってしまいます。堅気の衆からみれば馬鹿馬鹿しいことですけども。武士は主君や自分の名誉を守る為に斬ったり或いは切腹したりします。身分が高いのと同時にプライドも高かったんですね。ですから武士は互いに言葉一つ発するにも気を使ったことでしょう。何が侮辱になるかをよく弁えてたんだと思います。ヤクザの場合も武士ほど高尚なものではないですが、まあ似たようなもんでしょう。意地や誇りのために人を殺す。いずれにしても殺生に変わりないわけですから。
「あっしは人を斬ってるんです。どんな悪人でも人を殺めた穢れはすぐに消えはしません」 ―女人講の闇を裂く― 2011.11.6





だれかが風の中で
フランクリンの「夜と霧」を読みました。作者自身が体験したナチスの強制収容所での過酷な様子を綴ったものです。絶望的な状況の中で人はどうあるべきなのか?生きる意味とは?を問いかけます。自分には生きる意味があるのか?生きてる価値があるのか?フランクリンは言います。どのような時もどのような状況でも人生には意味がある。あなたにも何かできることがある。そして、そんなあなたを待っている誰かがいると。ん?これってどっかで聞いたことあるぞ。主題歌「だれかが風の中で」ですね。ドラマでは誰かが苦境から脱したくて誰かの助けを待っている。そして視聴者は紋次郎の登場を待っている。当時は仮面ライダーをはじめとしたヒーローものが真っ盛りでした。紋次郎もヒーローの一人です。紋次郎自身、絶望的な生き様ながら、それでもそんな彼を待っている誰かがいる。そして彼自身が出番を待っている。あっしには関わりねえこってと言いながら。ただ、このドラマは水戸黄門のようなスッキリした勧善懲悪とはならずにいつも悲しい結末でした。リアリズムですね。作詞の和田夏十が「夜と霧」を意識したのかどうかはわかりませんが共通するものがあると思います。先の見えない生き辛さというのはいつの時代にもあります。時代を超えて現代を生きる我々にも希望のヒントとなるような気がいたします。2016.6.16





孤独
「しかし私には是非孤独が要る。言わば快癒が。自分への復帰が。自由な軽やかな遊び戯れる空気の呼吸が要る」― フリードリヒ・ ニーチェ ―
世間では孤独は悪いことのように言われてますがそんなに悪いことですかねえ?自分が孤独であることを気に病んで自傷行為をしたり他人を傷つけ犯罪を犯すなんてのは馬鹿げたことです。一生涯孤独というのは問題でしょうけども(いや私はそれもいいと思ってます)今の一時期、孤独だという人は、その今を大切にしてほしいなと思います。孤独であることがいいこともあります(私はいいことだらけだと思ってます)まず自分の時間を存分に使えるということ。この時間を使って自分のスキルアップが出来るのではないでしょうか。例えば英会話とか。語学を身に付けるのは時間かかりますよねえ。冬の間に樹々が根を張り巡らすように自分を育てましょう。そして嫌な奴と付き合わずに済むというのもあります。やりたくない行事にも参加しなくて済みますしね。くだらない奴に拘わるくらい勿体ないことはないです。人生そんなに長くないですよ。それから一人暮らしの老人に対して「何かあったらどないするんや?」という声をよく聞きます。何かあったら病院に行くでしょう。夫婦で暮らしてるからって家でずっと看てるわけにはいきません。考えてみれば、連れ合いがいたとしてもどちらかが先立てばどちらかが残されることになります。死ぬ時は一人です。無理心中でもしない限り二人同時にということはありません。 孤独であることが淋しいということはあるでしょう。ですが慣れてしまえばどうということはないです。たいしたこっちゃない。それよりも孤独であることのメリットを謳歌しましょう。孤独を楽しみましょう。
「肉親さえも信じられない孤独な流れ渡世人、何のために生きているのかわからない男にとっては、美しい心というのが唯一の救いなのかもしれなかった」
― 噂の木枯し紋次郎 ― 2016.6.16


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