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お休み處  桐風庵

仏さま

仏とは西洋の絶対神のように何処か遠くに拝む対象があったり西方浄土に居たりするのではなく、自分自身に元々具わっている「性質」だと私は考えております。自身の仏性の種を大きな幹へと成長させようとする修行が仏道修行、菩薩道です。
では、そもそも仏とは何か?仏とはどういう人のことをいうのか?これをひとことで言うのは難しいのですが敢えていいますと「宇宙の法則を知る者」「宇宙と一体になれる者」だと思います。宇宙の法則とは、物が上から下に落ちる万有引力の法則、これも宇宙の法則のひとつですね。これらの宇宙の法則を知っているのと知らないのとでは随分と生き易さに違いが出るでしょう。例えば車を運転していてカーブに差し掛かります。そのカーブは時速60kmまでの速度なら安全に廻れて70kmだと遠心力で吹っ飛ばされるという法則があるとしましょう。その法則を知っているものは死ぬことはないですが、法則を無視して暴走したりすると助かりません。この法則を知っている知恵を「仏智」といいます。仏の智慧ですね。この智慧は、偏差値が高い低いとかIQが高い低いとかは関係ありません。仏智は人間の頭で考えるのではなく行動に表れるものです。ですから仏とは、目先の利益でなく「宇宙全体を考えて行動する者」ともいえるでしょう。その行動は或る時は慈悲という形であらわれたり、或る時は死をも厭わずに身を投げ出すといった行動であったりするかもしれません。自分は地球に対して何が出来るか。自分は今、宇宙に対して何をすればベストなのかが何も考えなくても行動として表れます。ニーチェがいうところの「超人」も同じなのではと思ってます。
死んだ人のことを仏といいます。そして死んだら土に還るともいいます。昔は土葬だったのでこういう言い方だったのでしょう。今は火葬です。死体を焼いて気体になろうとも宇宙に還ることに変わりはありません。死ねば誰でも宇宙と一体になれます。つまり誰でも一旦は仏に成れるということです。その後、輪廻転生で何に生まれ変わるかは又別問題ですが。死んだものは純粋です。これは絶対です。生きているものは絶対ではありません。気持ちが覚悟がフラフラしています。なかなか成仏とは程遠いです。死んでからでは遅すぎるという方には元気なうちに成仏することをお勧めします。生きているうちに仏に成ろうとすることを一生成仏または現世利益といいます。その為の修行が仏道修行なのです。2009.7.20





自分はこうありたい、自分が思い描く理想に近づきたい。或いは憧れの映画スターや野球選手のようになれたらいいな。誰もが一度は考えたことがあるのではないでしょうか。石原裕次郎にあこがれて服装や仕種を真似る。そうしているうちに何だか顔までソックリ似てきたなんてことがあります。思い込みが強い人ほどなりやすいようです。
なりたい人になる。そのなりたいものが仏様だったらどうでしょう。あまりにも漠然としていてイメージしにくいのではないでしょうか。そのため先人たちは仏像や曼陀羅を造って残してくれました。日蓮は文字で曼荼羅をこしらえました。独特な筆使いでハネ方が髭のようなのでヒゲマンダラとも呼ばれています。中央に南無妙法蓮華経の七文字、その周囲には帝釈天や大日如来といった諸天善神の名が配されています。これで東西南北を示しています。つまり文字だけで宇宙を表現しているのです。チベット仏教のマンダラは絵で宇宙を表現しています。意味は同じです。仏とは「宇宙と一体になることができる者」ですから曼陀羅そのものが仏といっていいでしょう。その仏と向かい合う。手を合わせる。拝む。声を発する。声を出さずともテレパシーで仏と対話する。そして仏の智恵を授かる。仏と一体になる。この、仏と一体になることを境智冥合するといいます。自分が宇宙に溶け込むともいえます。また、曼陀羅は鏡の作用もします。曼陀羅と対面します。曼陀羅という鏡に自分の姿が映ります。今の自分がどれほど仏とかけ離れているかがわかるというものです。
このように仏壇に向かい手を合わせる行為をしている人は誰しもが菩薩の行ないをしているのです。菩薩とは仏道修行者のことです。生涯を通して行うものです。ダライ・ラマ師も自身のことを修行者と仰っていました。どこかの尊師は自分を最終解脱者と言ってましたが。日蓮大菩薩という呼び方があります。日蓮は菩薩のリーダーだと言う人、いや日蓮は仏なのだと言う人、と意見が分かれるのですが、私は日蓮は仏という説をとっております。2009.7.22





仏像や曼陀羅が仏様といっても所詮は木や紙でできたものじゃないか。そんなもの拝んで効き目があるんだろうか?
仏性は人間だけにあるのではなく、人間以外の有情の動物、無情である草や木、石ころにも仏性が具わってていると私は考えています。これを草木成仏といいます。植物に感情があることはよく知られるようになりました。石ころに意思があるかどうかまだわかりませんが、石仏として人間が造って奉れば、それは立派な仏なのです。ただ単に気の持ちようということではなく、その物体を奉った瞬間に物が仏に昇華するのです。価値が変わり、境涯が変わるのです。
たとえば紙にしても色々価値が違います。同じ紙きれでも鼻紙も紙キレなら一万円札も紙キレです。でも価値が違います。そして最高の価値の紙キレが仏を表わした曼陀羅の紙です。紙であり仏なのです。
鰯の頭も信心からという言葉があります。イワシの頭でも気の持ちようで本尊になるということですが、崇拝の対象がイワシだとしたら自分はイワシ以下のものに成りはしないか。自分の成ろうとするものがイワシ・・・。気の持ち方をどうしようとイワシはイワシです。崇拝する対象はなるべく高い境涯のものにしましょう。2009.7.24




お釈迦様の姓はサンスクリット語でゴータマ。ゴーは牛。パーリ語でガウ。英語でカウ。タマは最も優れた。最も優れた牛。名はシッダールタ。シッダは成就した。アールタは目的。目的を成就した最も優れた牛ということになります。牛のような大らかな者になりたいと思ってる私にとっては嬉しいお名前です。2016.6.12


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