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お休み處  桐風庵

仏の教え

十界
人の境涯、心の状態を十段階に分けて表わします。下は地獄界から上は仏界まで十種類あります。
<地獄> その名の通り地獄の苦しみです。地獄の一日は娑婆の千年に相当するといわれています。楽しいときの時間は早く過ぎ、辛いときは長く感じます。娑婆世界でも辛いことが多いですが、その千年分を一日で体験するとなると想像を絶する辛く苦しいものなのでしょう。それが毎日繰り返されるのです。
<餓鬼> 飢えて貪る様子です。いつも満たされない気持ち。欲深さ。
<畜生> 犬畜生というように、動物です。弱肉強食。弱いものをいじめる。強いものには媚びる。小賢しい。
<修羅> 争いの状態です。すぐカッカする人、やたら喧嘩をふっかける人もこれに含まれます。
<人> ここに来てやっとごく普通の人間の境地です。
<天> 普通の人間が気分のいい状態。何かいいことがあって天にも昇る心地。ここまで地獄界から天界までの世界を六道といいます。並みの人間であれば、この六道を何度も行ったり来たりすることになります。これを六道輪廻といいます。この循環から逃れるには悟りの境地をめざすしかありません。
<声聞> 仏の声を聞いただけで悟りを開ける者といった意味です。いわゆる秀才、頭のいい人ですね。学者や実業界の成功者に多いタイプです。
<縁覚> 一流の職人や芸術家がひとつのことに熱中し自身の世界で悟る人たちです。声聞も縁覚も仏道修行をしなくても我流で悟れる人です。独自で勝手に悟れるとはいえ仏の悟りの境地には遠く及びません。また声聞縁覚の人たちは、最も仏に成るのが難しい、成仏しにくいとされています。
<菩薩> 仏道修行者。すべてに慈悲を持って接する人。
<仏> 覚者。宇宙を知る者。大慈大悲を知る者。宇宙と一体になれる者。
これらはひとつひとつ段階を経て地位が上がるといったものではなく、瞬間瞬間にあらわれるものです。時の流れ、何かのきっかけ、縁に触れて変わります。上がりもするし落ちもします。そして十の世界各々にまた十の世界の要素を具えています。地獄で仏という言葉もあるように。これを十界互具といいます。2009.8.30





輪廻転生
死んで生まれ変わる。人間に生まれ変わるとは限りませんが、とにかく何かに生まれ変わることを輪廻転生といいます。生まれて死んでまた生まれる。何に生まれるかは、生前に善行を積んだとか悪行を重ねたとかも関係があるでしょうが、それよりもその人が生きている間の意識や意志が大きく影響するのではないでしょうか。自分の意志によって細胞、さらには遺伝子をも変えられると私は考えています。話は少しそれますが生物の進化というのを考えてみましょう。進化はその生物の意志が何代何十代と受け継がれて完成していくものだと思います。例えばネズミのような小動物は地面を這うことしか出来ない弱い生き物です。まわりはすべて敵です。空を飛べたらもっと楽に敵から逃げられるのにと思う。空を飛びたい翼が欲しい体を変えたいという意志が働く。自分が生きているうちには叶わず、しかし強い意志は子孫に継続されて少しずつではあるが遺伝子が変化する。そして遂に空を飛ぶことの出来る機能を身につける。鳥はこのようにして進化したのではないでしょうか。意志の働きといっても生きるか死ぬかといった強烈な意志だから成せるものでしょう。。輪廻転生で生まれ変わるというのは、これに似たようなものではないかというのが私の仮説です。
生きてるのが辛いから、人生つまづいたから、いじめ、リストラ、貧困、病苦と自殺する人があとをたちません。地球上には種々な生き物がいます。人間に生まれるということは稀なことなのかもしれません。そういう貴重な命を自ら粗末にするような者が再び人間に生まれるとはとても思えないのです。もし蚊に生まれたとしたらどうなるか。飛んでて見つかれば手でたたきつぶされる。また生まれてすぐまたつぶされる。くりかえし地獄の責め苦を生きることになるでしょう。
テレビゲームをやっていて途中で失敗するとすぐリセットして最初からやりなおす人がいます。その感覚で自殺するとしたらとんでもないことです。死ねばすべてチャラとはならないのです。永遠の生命で考えると、死んだ後に生まれ変わるときは死んだそのときの状態から始まります。続きを生きるわけです。ですから苦しいから辛いからと自殺した場合、その苦しい境涯から再スタートです。どんな方法であれ自殺で死ぬ瞬間というのは地獄の苦しみでしょう。そんな状態から人生が始まるのです。恐ろしいことです。よくよく思い留まらねばなりません。死んだらそれで終わりという考えは、あまりにも唯物すぎます。三世(過去現在未来)に渡る永遠の生命はリセットできないのだと肝に銘じましょう。2009.8.30





一念三千
我々凡人は目先のこと身の回りのことが見える程度です。それが賢人になるにつれ自分の住む地域さらには自分の国もっといえば世界の幸福を考えるようになるでしょう。仏の境地とはどういうものでしょうか?宇宙全体を見渡せる俯瞰的な視点を持つ或いは宇宙と一体となる感覚を持てることが仏の境地ではないでしょうか。宇宙空間には本来でいうところの「時間」というものがありません。過去も未来も現在も全て同居しているのです。例えば光の速さでいう一万光年先で起こった星の爆発を瞬時に体感します。宇宙=自分なのですから他者との区別もありません。他人の痛みも自分のものとして受けとめます。これらのことはすべて意識によるものです。これを一念三千といいます。一念とは瞬間瞬間の意識、心の働きです。三千とは3000ではなく1000の3乗です。それくらい厖大な規模の事象が一瞬一瞬の心の働きかけによって影響されます。三世(過去現在未来)を含めたすべての現象事象に働きかけます。世界は宇宙は一念に凝縮されているのです。それくらい人の意識というものは重いものなのです。2011.4.5





平等
仏教では人間みな平等です。いや人間同士だけでなく他の生き物、草木、石ころに至るまで平等であるととらえてます。この地球上の万物は突き詰めれば全て原子分子で構成されています。物体は原子分子の塊りなわけです。地球そのものもそうです。人間だって宇宙の一つの要素にすぎません。ひとつひとつ違うように見えるのは組み合わせによるものです。元は同じなのですね。ですから目の前にあるものは実体として「ある」とも言えるし「ない」とも言える。これを「空」といいます。でも実際に目の前にあるのだから区別くらいはつけようとします。これを「仮」といいます。仮に名前を付けたってことです。すべてのものは原子分子の組み合わせにしかすぎない、とはいっても人間社会ひとつを見ても容姿が良かったり悪かったり能力が違ってたり貧富の差があったりで同じものがまるでないように思えてきます。だからこそ人間は悩んだり苦しんだりするのです。本来は仮の姿なのだけども「世の中とはそういうものなんだ、差別があってあたりまえなんだ」という考え方を仮観では推し進めていきます。仮の世界(妄想)を積極的に造ろうとする生き方。反対に空観では「すべてのものに違いなど、あるようでない、ないようである、所詮は一体のものなのだ」と突き放します。空観の方が大らかな様にも見えます。しかし空観の考えも度が過ぎますと「あるのかないのかわからないものを考えてもしょうがない。虚しい」と虚無に陥ることになります。映画「ネバーエンディングストーリー」の中でも、世の中で最も危険な思想が虚無だと言っています。空観仮観どちらに偏っても危険です。存在は全て「空」なのだと認識しながら、あらゆる「仮」の事象に対処する。これが正しいあり方だと思います。これを「中」といいます。これら三つの考えが「空仮中の三諦」です。諦とは「つまびらか」「あきらか」にするということです。組成時の組み合わせで容姿や能力が違うように見えても本質は何ら違いはないのです。違いがあるとすれば、その人その物の呼び名と役割だけです。役割はその人その物が最も得意なものということになります。得意なものに能力の優劣や貧富の差があるように見えるのは、その供給に対しての需要に差があるだけです。需要や社会の要求なんてものも世の中の組み合わせが変われば変わるもんです。2011.5.14


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