カテゴリ:読書
志賀直哉は短編の名手です。 多くは、身辺の出来事を簡潔な文章で彫り上げたもの。 小説の神様、文豪と仰ぎ見られた存在でした。 今回読んだのは、「城の崎にて」という短編。 山の手線の電車に跳ねられた作者が、 療養に訪れた温泉地での見聞録、といったらいいでしょうか。 戦前の日本には、歩道橋がありませんでした。 山の手線には、ほとんど踏切もありません。 急ぐときは、線路を横断するしかなかったのです。 現在のようにダイヤも過密ではなく、渡る余裕がありました。 作者が跳ねられたのは、そっちの方が珍しかったんでしょう。 閑話休題。温泉で退屈な日々を過ごす主人公。 窓の外を眺めたり、散歩をしたり。 隣の屋根瓦に蜂の死骸がありました。 夜半に降った雨で、死骸は流されます。 あの死骸はどこへ行ったのだろう。 ある午前、主人公は散歩に出かけます。 川っぷちを歩いていくと、人々が集まって騒いでいます。 大きな鼠が泳いで逃げようとしています。 鼠の首に、7寸ばかりの釘が刺さっていました。 石垣に登ろうとしても、釘が邪魔して登れません。 見物人は面白がって、石を投げたりします。 いずれ鼠は死ぬだろう。 主人公は、鼠の最後を見る前に、その場を離れます。 別の日、町から小川に沿って歩いて行きます。 薄暗くなってきました。 引き返そうとした時、半畳ほどの石の上に、 一匹のイモリがへばりついているのを見つけました。 何気なく石を投げると、それは見事にイモリに当たります。 絶対に当たるはずがないのに、偶然にも当たってしまったのです。 イモリは死にました。 自分は電車に跳ねられたが、偶然にも死にませんでした。 蜂は原因不明で死骸になりました。 鼠は首に釘を刺されて意志とは反対に死の運命を迎えます。 イモリはまったく偶然に石が当たって死んでしまいます。 生き残った自分と、死んだ禽獣との差はどこから来たのだろう。 生と死は、両極ではありません。 それは隣り合わせのものでしょう。 偶然が、死と生を分けたのです。 それはフェータルなものかもしれません。 運命に感謝しなければ、と主人公は思います。 しかし、喜びの感じは湧き上がってきませんでした。 生とは何か、死とは何かを問うた、傑作短編です。 未読の人には、強くお薦めします。
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最終更新日
2014年11月19日 09時43分27秒
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