無色透明

2005/06/16(木)14:55

166日目 - 煌(きら)めき

今日も屋久島は、曇っている。 最近は、毎日、曇っている。 これが梅雨というもの? ここのところ、毎晩、静かに自分の身体を光化(ひかりか)している。 なにしろカウントダウンが始まったので、かなり気合いが入っている。 宇宙からの光によって、自分の身体を光化する。 ところが、この光がヒマラヤ水晶の光と同質なのだ。 もっとも、ヒマラヤ水晶と言ってもピンキリで、最高レベルのヒマラヤ水晶と同質。 それは透明感に満ち、質感に満ちているもの。 透明なだけのブラジル水晶にはないクオリティがあるのだ。 もちろん、そんな最高級の水晶なんて、持っていない。 だから、ネットで見ているだけ。 見ているだけでも頭の中にインプットされてしまう。 連日、ヒマラヤ水晶をネットで見ているので、ネットに掲載されているヒマラヤ水晶はほとんど見たのではないだろうか。 でも、なかなか良いのは少ない。 ハイクオリティなのは、ほんの一部だ。 しかも、その大多数は既にsold outになっている。 良いものから売れる。 それだけ良いものは少ないということ。 ヒマラヤ水晶の高品質のものは稀少品なのだ。 それでも、ありがたいことに、売れた後でもネットには掲載されている。 また、売れてない高額なものも、ネットには掲載されている。 そういうのを、よーく見させてもらっている。 その透明感と質感が何とも言えない。 やはり、すばらしい! 別にヒマラヤ水晶がなくても、自分一人でも光化はできないことはない。 それでもいいのだが、ヒマラヤ水晶があると、それがやりやすいということ。 光的にサポートしてくれる。 楽にいつでも同調できる。 なぜなら、そこに常にその波動があるから。 自分の意識は動く。 波動は一定していない。 でも、ヒマラヤ水晶は高次元の波動で一定している。 だから、楽なのだ。 調整するのが楽ということ。 あまりヒマラヤ水晶、ヒマラヤ水晶と書くと、ヒマラヤ水晶依存症の人をつくり出しそうなので、別の話題に移ろう。 それは「思い込み」ということ。 思い込みについては、再三、この日記で書いてきた。 そして、ホームワークでもやった。 だから、以前から読んでいる人は、復習のつもりで読んでほしい。 「私」は思い込み。 感情も思い込みから出てくる。 人の意識のほとんどは思い込みからできている。 なに? そんなことはない? そうかな? もう一度同じことを書くつもりはない。 だから、そんなことはないと思う人は、この日記のバックナンバーを読んでほしい。 どこを読めばいい? そう聞かれても、あまりにも膨大な量なので、書いている本人にもわからない。 でも、大丈夫。 生きたデータ・バンクがいる。 ハイ、ぴあのさん、後でコメント欄に書いといてね。 どこを読んだらいいか。 お願いしまーす。 何もかもが思い込みなら、思い込みでないものはないのだろうか。 すべてが思い込みという訳ではない。 目の前にあるものは思い込みではない。 目の前のパソコンは、そこにある。 だからこそ、この日記が読める。 では、何が思い込みか。 この日記がずーっと続くと思うのが、思い込み。 明日終わるかもしれない。 今、目の前にあるのは事実。 でも、明日もあると思うのは思い込み。 思い込みというのは、意識の世界。 事実というのは、意識の外の世界。 思い込みというのは、自分一人の世界。 狭い、狭い「私」ワールド。 他の人との共通性はない。 もっとも、集団思い込みというのもあるにはある。 それはマスコミや教育によってつくられる。 でも、思い込みというのは、基本的に自分の世界に浸っている場合が多い。 だから、周りの思い込みとは異なる。 その結果、周りと軋轢が生じる。 最終的には、戦争にまで発展することもある。 つまり、思い込みとは、信念であり、信条であり、信仰であり、人生観であり、モットーであり、意見であり・・・ それらが一人一人異なるということ。 だから、意見が合わなかったり、食い違ったりする。 思い込みは、これまでの人生経験によってつくられる。 だから、すべて過去のもの。 過去の遺物。 今、この瞬間には思い込みはない。 思い込みは、すべて頭の中にある。 記憶の中にある。 思い込みとは、曇空のようなものだろうか。 どんよりとして、うっとうしい。 まったくクリアーではない。 重たくのしかかる。 閉塞感。 自由ではないのだ。 思い込みと対極にあるものは? 曇り空の反対。 そう、青空。 どこまでも澄み渡った青空。 何もない空間。 限りない光がある空間。 空っぽの空間。 自由な空。 しかし、それは雲が晴れないと見ることはできない。 思い込みという雲が晴れないと、青空というリアリティは見れない。 仏教では、思い込みのことをマーヤと言う。 つまり、幻(まぼろし)ということ。 人生はマーヤ。 幻の人生。 思い込みの人生。 幻想の人生。 思い込みが消えた時だけ、真実が現れる。 それがリアリティ。 人は思考によって生きている。 つまり、思い。 この思いと自己同一化している。 自分が思いそのものになっている。 人は思いの世界に埋没している。 それがマーヤ。 幻の人生。 人は、肉体も感情も思考も自分自身だと思っている。 まさに、それこそが思い込み。 肉体は、時々、自分の言うことを聞かなくなる。 感情も、勝手に爆発したりする。 思考も、いつも独り言を言っている。 そう、自分のはずなのに、自分の思うようにならない。 なぜ? 肉体も、感情も、思考も、本当に自分自身だろうか。 それとも、それは仮のものだろうか。 今、一緒にいるだけのものだろうか。 肉体に入り、感情を感じ、思考を使っているだけだろうか。 そういう体験をしているのだろうか。 自分は、肉体でも、感情でも、思考でもなく、他の何かだろうか。 魂? そんなに焦らないで。 ゆっくり、一歩、一歩。 魂? それもまた思い込みかもしれない。 なぜなら、魂を見たことある? 見たことのない人が圧倒的だろう。 たぶん、人から聞いたり、本で読んだり・・・ それはイメージ、つまり、思い込み。 肉体と一緒にいてみる。 そして、肉体を理解する。 感情と一緒にいてみる。 そして、感情を理解する。 思考と一緒にいてみる。 そして、思考を理解する。 魂と一緒にいてみる? どうやって? 知らないものは一緒にいられない。 目の前の事実=わかっていることから始めよう。 一歩、一歩、着実に。 一気に飛躍しないように。 そうすれば、やがて魂もわかるかもしれない。 一つ一つ理解していけば、やがて魂の順番になるだろう。 でも、飛躍しないように。 ちゃんとグランディングしないと。 肉体を理解し、感情を理解し、思考を理解する。 それらと一緒にいて、それらを理解する。 それができれば、それらに振り回されなくなる。 そうなれば、自分は肉体でも、感情でも、思考でもなくなる。 自分は肉体であり、肉体ではない。 自分は感情であり、感情ではない。 自分は思考であり、思考ではない。 自分は・・・? 静かに自分を見守っているといい。 肉体に翻弄されたり、感情の奴隷になったり、思考の虜になったりしない。 それらのものと一緒にいて、それらのものを体験し、同時にそれらのものを見守っている。 けっして、それらに使われない。 主体性をキープする。 自分自身であり続ける。 肉体でも、感情でも、思考でもない。 自分は、自分。 肉体とも、感情とも、思考とも、少し距離を置いて付き合えるだろうか。 そうすれば、それらに翻弄されないかもしれない。 そうすれば、それらとうまく付き合えるかもしれない。 自己同一化しないで、ほんのちょっと距離を持つ。 そうすれば、もう少し楽に生きれるかもしれない。 肉体や感情や思考とベッタリくっついていると、不自由だ。 ちょっとだけ距離があると、楽に生きれる。 肉体と感情と思考からできている「私」とも、ちょっと距離を取ろう。 「私」と自己同一化していると、息苦しくなる。 だから、ほんのちょっと離れてみる。 そうすると、別の人生が始まるかもしれない。 肉体でも、感情でも、思考でもない人生。 どんな人生? 自分を見守る人生? 自分で確かめて。 魚座という思い込みの時代から、水瓶座というクリアーな意識の時代へ変わろうとしている。 もう、肉体や感情や思考との自己同一化から抜け出す時期ではないだろうか。 もう、「私」という殻を脱ぐ時ではないだろうか。 サナギから脱皮して、大空を自由に舞う。 風に吹かれ、花の香りに誘われ、太陽の光を浴びる。 自由に望むところへ飛ぶ・・・ 「私」という頸木(くびき)から解放されたら、人はそうなるだろう。 物質的な三次元限定バージョンから、多次元的な宇宙バージョンへ脱皮しようとしている。 思い込みから来る同情や慈善ではなくて、もっと違うものがあるかもしれない。 過去をベースにした、やさしさではなくて、もっと違うものがあるかもしれない。 自分の経験をベースにした、あたたかさではなくて、もっと違うものがあるかもしれない。 思いもかけないようなやさしさが、突然、湧いてくるかもしれない。 事実に直面した時、予想もしないあたたかさが自分の内から湧き出すかもしれない。 過去の思い込みではなく、今に生きる時、思いもかけない人生が展開するかもしれない。 人生は、不思議だ。 雷鳴が轟き、稲妻が走る。 人の意識も、あのようなものだろうか。 意識は、光。 瞬間の煌(きら)めき。 火花のような、稲妻のような煌めき。 これが166日目の心境です。

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