ボシタって、何から、どこから来たの?
藤崎宮秋の例大祭についてボシタ祭りのこの「ボシタ」どこから来たの?という疑問に関してちょっと調べてみましたので。──────────────────────────────────────ちょっと調べると、以下の3点に集約されそう(1)滅ぼした(2)韓国語で”祭り”を意味する言葉(3)五穀豊穣を祝うそれぞれの情報は以下のページを参考にさせて頂きました。[チャガールにもたれながら!]http://horinoen.blog53.fc2.com/blog-entry-68.htmlよりところで、この熊本の「ボシタ祭り」藤崎宮秋の例大祭、昔は掛け声で「ボシタ!ボシタ!」と叫んでいたのが、叫ばれなくなりました。これは、加藤清正が朝鮮出兵の時、滅ぼした(ホロボシタ)という言葉に起因するからボシタと言わないでほしいということからで、やはり、多くの方が「ホロボシタ」というところから「ボシタ祭り」と言われていると思っています。でも、一説によると、それは大きな間違いだと言われています。たしかに、加藤清正は朝鮮から多くの捕虜(この言い方は好きではないのですが・・・)を熊本に連れてきました。熊本の地に朝鮮の高度な文化を伝えるために連れてきたのですが、(だから、熊本には蔚山町「うるさんまち」という朝鮮の地名がつけられている町があります。)その時の朝鮮人が熊本で行われている藤崎宮の祭りを見て「ポシタ」と言ったそうです。「ポシタ」はいわゆる祭りのことで、「あっ祭りだ祭りだ!」「あっポシタポシタ」と言ったのがボシタ祭りの起源という説もございます。私の先輩の受け売りですが、戦勝記念祭りではなく、もともとは五穀豊穣を願う祭りで、誕生祭、いわゆる男と女の交わりを祝う日本だけでなく、世界のあらゆるところで行われてきた祭りと一緒なのです。──────────────────────────────────────メルマガ内より抜粋http://melma.com/backnumber_2744_919196/ 「ぼした祭り」とは、9月11日から15日に行なわれる熊本の藤崎八幡宮の秋祭ことで、「随兵(づいびょう)祭り」とも言われています。 Cさんによると、「『ぼした』の語源は『朝鮮滅ぼした』から来ている」そうです。しかしこれは好ましくない言葉として、「ぼした」となったらしいというのです。熊本ではこれが一般的なようです。でもCさんはこれが正しい語源なのかは分からない、とおっしゃり、「調べてください」と言って帰っていかれました。 それで編集長は調べました。その一部をここに紹介します。[祭り] 9月15日には、藤崎八幡宮から、現在地に移転する前の八幡宮の場所にあるお旅所まで、牛車にひかれた神輿、鎧をきた随兵と、槍を持つ陣笠、それに続く馬追いの勢子が練り歩くそうです。 隋兵と獅子、御輿、飾り馬が奉納され、飾り馬には”ひのかげ”という背中に飾りものをつけ、勢子達が鉦や太鼓、ラッパで追いたてるという祭りです。馬を引く口取りが、いかに馬を操って勇壮に見せるかが勝負どころだといいます。 「昔は馬に酒を飲ませ、青竹で尻を叩きながら暴れさせていたが、動物愛護が叫ばれてからは禁止になった」ともいいます。最近では参加する女性の勢子達が、年々派手になっているのが問題になっているそうです。 祭りのお囃しは、「ラッパと鐘と太鼓で、東洋のエイトビートといわれる独特の乗りのいいリズムである」とも紹介されています。 編集長はこの祭りを見たことがないので、どうしてもこのような書き方になってしまいます。[起源] 藤崎八幡宮は応神天皇、住吉大神、神功皇后が祀られた神社のようです。祭りは1000年以上前に行なわれていた、捕らえていた生物を放ち豊穣を祈る放生会が起源だとされています。 現代の祭りは、加藤清正が朝鮮出兵で苦戦したときに、熊本の守り神とされる八幡様の御加護により無事日本に帰国できたので、兵を従えて八幡様に御礼参りをしたのが始まりだとされています。 加藤清正が、戦国時代の戦乱で廃れかけていた放生会を再興させたもので、朝鮮出兵して、やっとのことで生きて帰ることのできた感謝の意を表したものでした。随兵(武者行列)は、この時から行なわれるようになりました。 また、明治維新を境に、武家中心の祭りから庶民の祭りへと担い手も変わり、戦後は藤崎宮の氏子を中心とした地域共同体の祭りに、さらに地域の枠を越えた熊本の祭りへと変貌しています。[語源] 「ぼした」の語源は、加藤清正が朝鮮出兵の帰路、御礼参りに参拝したときのかけ声「ほろぼした」が「ぼした」となまって呼ばれるようになったとか、熊本での男女の交わりをあらわす表現がかけ声になったともいわれるなど、諸説あるそうです。 熊本学園大学で開かれている「東アジア文化論講義」で作家の姜信子さんが、「ぼした祭り」の語源にふれておられます。雑誌「サライ」2000年16号の「ふるさとの祭り暦」というコラムで、永六輔さんが、「ぼした祭り」を取りあげたことをきっかけに、講義のテーマになったようです。 講義では、永さんが同誌に「ぼした祭りは、加藤清正の朝鮮出兵を記念して行なわれるようになった。ぼしたは滅ぼしたに由来する。この呼び名をあるとき、韓国からの抗議を受けて、名前を変えた」と、書いておられると紹介しています。 しかし姜さんは、「ぼしたは、万博パレード参加問題が契機となって1970年以降使わないようになっていったものの、1982年に伝統に帰るという名目で復活。1984年に熊本県内各団体(民団、部落解放同盟等)の申し入れで使用中止になった。ぼしたという言葉を使わなくなったのは、韓国からの抗議のためではない。ただし、韓国との友好関係を慮ったのは事実」と、書いています。──────────────────────────────────────