ないすミドルのレース日記 (楽しく走ろう♪)

2008/08/17(日)21:16

戦争を知らない子供たち・・・父の空襲体験記

ご存知の通り、8月15日は「第二次世界大戦」の終戦記念日ですね。もちろん私は 『戦争を知らない子供たち』 の一人ですが、5年前72歳で他界した父は戦争体験者。 昨日来、お墓参りに帰郷したとき、父が書いた手記が出てきました。肺癌に侵され、余命1年半と宣告された平成11年に、私たちに伝えようと書いたと思われます。(最後まで父には病名を伏せていましたが、本人は気付いていたようです)父の意思を想い、ここに全文を紹介します。(ノンフィクション、原文のまま)           表紙  (父の自筆)    はじめに 昭和二十年(1945)四月は、私にとって三重師範(注1)一部入学の記念すべき年ではあったが、その喜びも束の間、八月には敗戦、七月に津の町消炎、母校消滅の悲しい年でもあった。 学園生活四ヶ月余りの体験は、既に半世紀以上経過した今日でも悲惨な記憶として留めている。 再びくり返してはならない、戦争への憎しみに燃えながら記することにいたします。※ 注1:三重師範学校、現在の三重大学 [一] 機銃掃射を受けて 昭和二十年六月、桶(おけ=師範の呼び名)の一年生数名は、毎日の事ながら、穴掘り(対戦車自爆の穴)訓練のため、鍬やスコ(注2)を肩に道路を二列縦隊で行進していた。 午後二時頃空襲警報のサイレンが聞こえた。 「ウン、又か」 と差して気にも留めず行進を続けた。その時前方の木々の合間に、飛行機が音もなく近付くのが見えた。 私達は日本の零戦と思い校歌を唄いながら歩を進めた。と、見るみる機影が正面から低空飛行に移った。 「おかしいぞ」 と思った時 「グラマン(注3)だ、散れ」 と教官(配属将校)の大声。私は夢中で右に飛び退いて顔を伏せた。 二米(注4)も跳んだであろうか、伏せた所は泥田の中だった。左耳の近くで 「チュンチュン」 と機銃掃射の弾丸が不気味な音をたてて道路上を跳ねていくのが聞こえた。 「列に戻れ」 と教官の声。 私達は泥だらけの姿で体形に着いた。「ホー」 とひと息も束の間、右旋回したグラマンは、後方から再び私達を狙って来た。 「まだまだ」 続いて 「散れ」 と教官の声。グラマン機上の顔(注5)が目に入った一瞬、左に逃げ泥水に顔を伏せた。 三、四回執拗に掃射されたように記憶しているが、全員難をのがれることが出来た。 今日の掃射は、私達を兵隊行進と間違ったのではないだろうか? その夜は、震えが止まらず一睡も出来なかった。※ 注2:クワやスコップ  注3:アメリカ軍の戦闘機、通称ヘルキャット 注4:2メートル 注5:パイロットの顔     グラマン  [二] 狙われた学園 七月二十四日午前十時頃だったか、本館で授業中 「空襲警報発令、只今B29(注5)の大編隊、宇治山田上空を北進中」 の放送有り。 私達は二階の教室から誠之寮へ警報発令の装備に着替えにもどった。 発令から三分余りで準備して、本館の地下防空壕へ向う渡り廊下を歩行していた時、突然 「ヒューバリバリ、ドドーン」 の大音響と共に、左右の壁が私を直撃し、爆風で廊下から土間へ吹き飛ばされ、そのまま意識不明の失心状態になってしまった。このことは一瞬の出来事で、意識回復後知ったことである。 失心からどれ程時間が過ぎたのか定かではないが、気が付いた時にはまだ爆撃が続いていた。 私は腹這いのまま本館地下壕に向かい、非難することが出来た。 そこには教官や級友が避難しており、「ほっと」 胸をなでおろしたのである。 後で知ったことだが、倉田先輩が爆弾で命をおとされたとの事である。  空襲解除後、運動場へ出てみると、五十余りの弾穴が口を開け、付属小の校舎や誠之寮も破壊され、本館の周囲は一面火の海と化していた。 そこに一人、かしこに三人と負傷者や、首や手足の無い死者がころがり、地獄絵図そのものであった。私達は死者や負傷者を寺院や病院へ運んだり、壊れた建物の下から 「助けて」 と叫ぶ市民を助け出したり、燃え迫る火を消したりして、一日中夢中になって崩れそうになる心に鞭打ちながら懸命に働いた。最も痛ましかったのは、恩師の奥様が我が子を抱かれたままの姿で、真黒に焼かれ壕の中で死亡されていたことや、校舎(音楽室)の修理のために屋根に上り仕事をされていた大工さんが、全員一片の肉塊と化していた事等、痛ましい極みであった。 思うに今日の空襲は、学園を狙ったのであろうが、五百キロ爆弾一発でも本館直撃なら、多数の級友と私も助からなかったと思われるものである。※ 注5:アメリカ軍の大型爆撃機。 広島、長崎に原爆を投下したのもB29(エノラゲイ)。     B29  [三] 焼夷弾攻撃により津の町全滅 七月二十七日、この前の空襲で誠之寮が灰と化したため、私達は津中へ移転して学習することになった。 午後十時消灯、今夜の空襲を予測して、上下服にゲートル姿で床に着き、枕元に救急用具を準備した。「うとうと」 とまどろみかけた時、空襲警報となった。 屋外へ出ると津の上空は、B29の焼夷弾攻撃が江戸橋、津海岸方面から始まっていた。遠くに打ち上げ花火のように美しく見え、しばらく見とれていたが、またたく間に都心へと迫ってきた。危険を感じた私は、布団に水をかけ頭からかぶって避難道を探したのであるが、火を噴いた焼夷弾が雨霰のように降ってくるので、歩くことも留まることも出来ず、とにかく落下する焼夷弾、地上で火を噴く焼夷弾、迫り来る猛火を避けながら級友ともいつしか分かれ、夢中で逃げ惑っていた。 いつの間にか布団も焼け、靴も脱げ素足のまま山中へ逃げ込んでいた。しかし山中も安住の地ではなく、山火事となって周囲から迫ってきた。 進退極まった私に天の助けか小池が目に入り、そこへ飛び込んだ。 火の治まるまで顔だけ水面に出す忍者の姿で一刻余り密むことにした。 夏とはいえ、深夜の水は膚身にこたえ、ずぶ濡れのまま震えていたと思われる。 その内に夜が明けて来た。  散りぢりになっていた学友も一人、二人小高い丘に集まって来て、確か十一名だったと思われるが互いの無事を確かめ合ったのである。 丘の上から見えた津の町や母校も真っ赤な炎に包まれ、この世の終わりのように感じられた。 茫然自失、直立不動姿勢の十一名は、母校に向って深々と最敬礼を以って母校に別れを告げたのであった。  十四才の夏、私は今日も生を恵た。 それから二週間あまりの八月十五日、終戦を迎えたのである。                                      合掌                                    昭和二十六年 三重大卒   ※ 文中の注釈は、私(ないす)が勝手に入れました。    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  生前、父から戦争体験について少しだけ聞かされていたが、こんな詳しいことは知らなかった。この体験記を読んで、もっと詳しく話を聞きたいと思ったが、それも今では叶わぬ事。 三重県の津で この惨状なのだから、広島・長崎の原爆や、東京大空襲、沖縄決戦などは想像を絶する地獄絵だったことだろう。 現在でも世界の各地で戦争や紛争、テロが勃発し、尊い命が犠牲になり続けている。地球上すべての国と地域に平和が訪れることを切に願うと共に、犠牲になられた多くの方々のご冥福をお祈り致します。  この『狙われた学園』を読んでいただき、ありがとうございます。読んでくださった皆様、コメントをくださった皆様に、父に成り代わり感謝申し上げます。

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