カテゴリ:歴史あれこれ
_秋田県湯沢市桑崎に御返事(おっぺち)という、なんともユニークな名の地がある。
自動車専用道横手湯沢線の終点、雄勝こまちICを降りて少し戻った辺りだ。 旧雄勝町は小野小町の誕生の地とされ、小町堂がすぐ近くにある。 似たような地名には、北海道の乙部(おとべ)町や、岩手県盛岡市の乙部(おとべ)がある。 また、岩手県二戸市に御返地(ごへんち)地区があり、昭和30年までは御返地村として存在していたようだ。 御返事には次のような悲恋物語が伝わっている。 『小町に想いを寄せていた深草少将(ふかくさのしょうしょう)は、京を去っていた小町を追って出羽に下った。そして、小町に恋文を送るが、小町は、「小さい頃にあった芍薬の花が無くなったので、百本植えてくれたらあなたの心に添いましょう。」と返事をした。 その頃、小町は疱瘡にかかっていたので、磯前神社の境内に湧き出る泉で顔を洗い、早く治したい一心で通い続けていた。 一方、少将は一日も早く小町に逢いたいと、芍薬の花を毎日届けた。これが「百日通い」の始まりである。そして、折からの大雨の中、最後の百本目を届けるため、使いの者が止めるのを振り切り御返事橋まで来たが、洪水で橋もろとも流されて亡くなってしまった。 少将の死を悲しんだ小町は、桐善寺に石碑を建てて供養した。』 (湯沢市のホームページ・観光情報サイトの深草少将から引用。) さて、wikipedia深草少将を開くと、そこには次の記述がある。 『深草少将(ふかくさのしょうしょう)は、室町時代に世阿弥ら能作者が創作した、小野小町にまつわる「百夜通い(ももよがよい)」の伝説に登場する人物。欣浄寺(京都市伏見区)に屋敷があったともされる。 欣浄寺の池の横には「少将の通い道」とよばれるものがあり、訴訟を持っている者がここを通るとかなわないと言われる。その他、小野小町供養塔と並んで深草少将供養塔がある。また、随心院(京都市山科区)には、深草少将等が書いた手紙を埋めたとされる「文塚」等がある。 小野小町を愛したといわれ、小町が私の元へ百日間通い続けたら結婚しようと言い、九十九夜通ったが、雪の降る日で、雪に埋まり凍死したとも言われている。』 雄勝町に伝わる物語と類似性はあるものの、こちらのほうが伝説の地としては信憑性が高く仕上がっている。 さらに、wikipediaで百夜通いを調べたら、『百夜通いとは、世阿弥などの能作者たちが創作した小野小町の伝説。』とある。 「絶世の美女」といわれた小野小町だからこそ、多くの男心を揺さぶり、恋の遍歴もさぞかし多かったことだろう。 しかし、能作者によって、小町はやがて、年老いた乞食同様のあわれな老婆に仕立てられてしまう。 能演目字典・卒都婆小町/卒塔婆小町にもそうした姿が描かれている。 一説によると、小町伝承は実に33都府県に及ぶという。 地名の由来に戻そう。 民俗学の広場というHPで「乙部」の地名の由来を調べたら『アイヌ語の「オ(そこの)」+「ト(沼)」+「ペツ(川)」に由来する。』というのが見つかった。 「おとぺつ」から「おっぺつ」を経て「おっぺち」に変化し、それに小町伝説と結びつけて「御返事(おっぺち)」になったという説はどうだろうか。 深草少将が橋とともに流されたという御返事橋は東鳥海山を仰ぐ場所にあり、今は頑強な橋が架かっている。 伝説の美女を露わにし過ぎたようで、申し訳ない。
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Last updated
2017/02/10 02:14:32 PM
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