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2017/02/16
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カテゴリ:歴史あれこれ
男甑山から望む女甑山

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及位は甑山の山岳修行が由来
 難読地名に「及位(のぞき)」というのがある。
 マピオン-及位の地名検索で表示されたのは次の3個所。
 山形県最上郡真室川町及位
 秋田県由利本荘市及位
 秋田県大仙市南外及位
 よく知られているのは真室川町の「及位」である。
 奥羽本線(JR東日本)の駅もあり、国道13号線にその標識もあるので、通る人の目に良く留まる。

 真室川町の「及位」は、甑山(こしきやま)における山岳信仰の覗き修行に由来する。
 wikipedia-甑山には
 『山域全体が急峻な岩場を抱いた2つの岩峰の男甑(おこしき)、女甑(めこしき)からなっている。
 甑とは米を蒸す木桶のことで、山の形から名付けられたと考えられる。
 薬師如来堂 - 山形県側の登山道入り口にある祠。宿坊跡で、ここから修験道を行う者は甑山に登ったとされる。修験道は栄えていったが、修行者を騙し金品をゆすり取る俗僧や、強盗目的で修行者を殺害する輩まで現われ、執権北条時頼が当地を訪れ閉山を言い渡したという言い伝えが残されている。甑山での修業は女甑の赤穴に安置された秘仏を拝むというものだった。修行者は二十七日の断食の後険しい山によじ登り、鎖を伝って岩場を渡り、最後は命綱で逆さ吊りになって、断崖にある赤穴の中を覗かなければならないという、命がけの荒行であった。見事「覗きの行」を修めれば、修行者はより高い行者の「位」を得る。
 これにちなんで覗きの行によって「及第」した位は「及位」と書いて「のぞき」と呼ばれるようになり、やがて修行の場となった山の付近も「及位」と呼ばれるようになったと言われる。』などとある。
 写真は男甑から望む女甑で、甑を逆さにした形状と急峻な山容がよくわかる。秋の紅葉期は山全体が美しい紅葉色に包まれる。

 覗き修行は今でも続けられており、よく知られているのは大峰山(奈良県)である。
 youtubeにその厳しい修行の動画があった。→大峰山 西の覗き!


及位は戊辰戦争の激戦地
 及位は、新政府軍と旧幕府派が交戦した戊辰戦争の舞台となった地でもある。
 『秋田藩は当初、奥羽列藩同盟に調印して旧幕府派に組したが、間もなく離反して新政府軍の一員となった。これにより裏切り者として仙台藩、庄内藩などから猛攻を受けることとなった。
 慶応4年(1868年)7月、秋田藩は新庄藩金山付近に布陣していた仙台藩を奇襲して勝利を収めたが、ほどなく体制を立て直した庄内・仙台軍に押し返されるようになり、藩内各地が戦場となった。
 秋田藩は各藩から猛攻を受けて敗北を重ね、院内、湯沢、横手などの重要拠点が次々占拠された。
 結局、鍋島、大村、薩摩などの政府軍が海路から上陸して参戦したことから戦況が好転し、9月になって旧幕府派の諸藩は新政府軍の軍門に下ることとなって、戦乱が収束したのである。』(大雄村史を参考)


石川辰之助の戊辰合戦日記
 この戊辰戦争に、組頭に命じられて戦士として参戦した石川辰之助の日記が見つかった。
 石川辰之助は秋田藩の藩士で、横手城代戸村十太夫の配下にあった。
 私の妻の曽祖父で、後に初代山内村長を務めた人でもある。
 彼は、17歳で妻を娶ったばかりだった。
 以下、その日記の一部から戊辰戦争の様子を探ってみたい。
 原文を読み下し文で表記し、一部旧漢字は新漢字に置き換え、()内に注釈を加えた。
 光孝記録並びに要書綴(抄)
一、五月四日、御役処より此の度沢様(沢為量・奥羽鎮撫副総督)御下りに付き、同様の急事これ有り候もはかり難く、急事これ有り候節、二の丸にて急の大鼓打ち候間、其の節戦争の心得を以武者溜へ相詰べき旨仰せ渡され候。
一、同日御役処より御催促にて罷り出候ところ、此の度沢三位郷御下り並びに官軍の人勢数百人罷り下り候に付き、中の橋御固め仰せ付られ、出張りの隊者御沙汰次第出張り致すべき旨仰せ渡され候。
一、五日明ヶ半時、先日仰せ付られ候通り五ッ時より罷り出べく御役処より仰せ渡され、五ッ時より相詰め候。
一、同六日、明ヶ半時沢様御立ち遊ばされ候に付き、御固め人数十人並びに御足軽二人引き払い申し候。
一、六月二十九日、御役処より御催促にて上方勢横手泊りに付き中の橋御固め仰せ付られ候。
一、晦日明け時、引き払い申し候。
一、七月十五日九ッ時、組頭より御催促にて上方勢応援として戦士仰せ付られ金山へ明十六日九ッ時出張致すべき旨仰せ渡され候。依って二の丸御役処罷り越し右の御届け致し御郷校へ罷り越し、六匁御鉄砲一挺口薬入一ッ受け取り候。
一、同日七ッ半時、支配中城小鷹狩源太御軍事御用にて明後十七日横手へ御出の向触れ相達し候に付き、明十六日の出立見合わせに相成り候。
一、同夜組頭より支配御出に付き、御勝手方の人数先例の通り明後十七日金沢村迄御出迎えに罷り出べく仰せ渡され候。
一、同十六日組頭より御催促にて上方勢応援御免成し置かれ候旨仰せ渡され、御兵具蔵より御渡し候品明十七日五ッ時返上致すべき旨仰せ渡され候。依って二の丸御役処へ罷り越し右の趣御届け致し、御郷校へ罷り越し、右同断。
一、同十七日朝五ッ時、組頭より御催促にて御兵具蔵より御渡しの品返上に及ばざる旨仰せ渡され候。
一、同日五ッ半時、組頭より御催促にて、上方勢応援として大山若狭殿付属戦士、今九ッ時出張致すべき旨仰せ渡され候。
一、同日九ッ時、出立山崎外れにて筒払い致し、七ッ半時湯沢へ着、一宿致し、翌十八日朝明ヶ半時出立、八ッ時院内へ着。大山若狭殿指図にて善福寺へ一宿致し候。
一、同日夜暮れ時、上方勢新庄勢御繰り出しに付き始末致し罷り有るべく仰せ渡され、始末致し罷り有り候。
一、十九日、合言葉松か谷。
一、同日朝五ッ時、院内大山若狭殿指図にて塩根坂(主寝坂)へ罷り越し、湯沢勢と交代致し候。
一、同日七ッ時、及位村百姓両人賊情探索致し候者罷り越し、今日賊兵漆野(金山町漆野)と申す処へ五、六百人繰り込み、本道中田村外れ台場築き、大砲二ツ構え、人数三、四百人位金山より繰り込み等相成り候ゆえ、只今にも押し来たり候もはかり難き趣、注進に候。
一、同日暮れ時、大滝(真室川町)の方にて鉄砲の音十発位聞こえ、其の時長州藩三原倡助早打ちにて罷り越し、味方の筒払いと申聞けに候。今晩急戦始まり候もはかり難く候間、其の節早打ちを以って知らさすべき申し伝え、罷り帰り候。それより横手勢残り無く台場へ相詰め、翌明ヶ方迄罷り有り候。
一、同二十日、合言葉雨か天。
一、同二十一日、合言葉月か天。
一、同日四ッ時、四の台場左の山へ番兵にて罷り越し、九ッ時交代を得、罷り帰り候。
一、同日暮六ッ時より翌二十二日明ヶ方横手勢残り無く台場へ相詰め候。
一、同二十二日、合言葉花かモミヅ[紅葉]。
一、同日、長州藩三原罷り越し、坂下一軒茶屋少々上へ台場を拵え罷り帰り候。
一、同日九ッ時、番兵にて四ノ台場上の山へ相詰め、八ッ時交代を得、罷り帰り候。
一、同日、九條様[総督九條道孝なり]、沢様、参謀醍醐様右御三方様より御酒、御肴下され候。御添書左の通り。
  出陣以来日々苦戦連揵大儀、御感悦被為有、依御酒御肴被給之候。尚、此上勉励可有之候事。
一、同日九ッ半時、塩根坂にて頂戴致し候。
一、同二十三日、合言葉、川かアラス(嵐)。
一、同日朝五ッ時、一の台場へ番兵にて相詰め、四ッ時交代を得、罷り帰り候。
一、同日、兵隊一統、自分小屋懸ヶ致し候。
一、同日四ッ時、[落合十郎配]佐川八右衛門番兵にて罷り越し賊兵の間者中田村百姓一人取り押さえ罷り帰り候。其の時迅問致し候処、中田村と申す処に三百人位居り、入口へ台場を拵え大砲を構え番兵致し、金山には六、七百人、漆野にて四、五十人居り候と申し聞けに候。
一、同日九ッ時、番兵にて一の台場へ相詰め、直々物見仰せ付られ罷り越し候処、賊兵相見え、依って罷り帰り、本陣へ注進致し候。
一、同日七ッ時、一軒茶屋近辺へ郷夫多人数篝(かがり)木を切りに参り、其の時賊兵二、三十人参り候とて逃げ帰り、依って本陣へ注進致し、上方勢五人、横手勢二十五人同様追い懸ヶ候処、賊兵砲発も及ばず逃げ去り候。其の節益子藤太、私と両人物見仰せ付られ、茶屋後の山へ罷り越し居り候処、向いの田中にて賊兵鉄砲一発打ち馳せ帰り候。砲発は引き揚げの図と相見え申し候。暮れ六ッ時賊方にて大鼓の音相聞え候。暮れ六つ半時罷り帰り、本陣へ罷り越し、右の趣申し聞ヶ候。
一、同二十四日、湯沢と交代に相成り、横手勢非番に候え共、跡御本屋に罷り有るべく仰せ渡され罷り有り候。
一、同二十五日、合言葉川かアラス(嵐)。
一、同日未明、本道坂下台場にて鯨波の聲夥しく相聞こえ、賊兵襲来候もはかり難しと思い始末候処へ、湯沢勢より賊兵襲来候と注進参り、且つ罷り越し候処、坂下台場番兵湯沢勢の内一人手負い二人捕われ、郷夫一人帰宅、一人捕われ、茶屋並びに台場へ掛ヶ渡し候小屋へ火を懸ヶ、賊兵一人も見えず、然る処左の山へ埋伏せ砲発致し、味方よりも砲発、争戦と相成り、私共組合七、八人左の山手へ向われ、登山の節人勢を見、合言葉を懸ヶ候え共相分からず、賊兵と見受切り入らるるとする処、秋田と云て袖印を見せ、依って同様砲戦致し罷り有り候処、九ッ半時石川傳一郎罷り越し、鏡沢(真室川町及位)敗れ、且つ本道危く相成り候間、右御人勢御引き揚げの事御伝え申すべく長州藩より申し付けられ罷り越すと申し聞ヶに付き、右人勢本道へ引き揚げ候処、本道固めの人勢多く引き揚げ、残り人勢二十五人位よりこれ無く、依って旗奉行和知源左衛門へ伺い候処、此の台場二ヶ処において防戦致すべく申し伝えられ、相固め罷り有り候処、賊兵右の山手より不意に鯨波を作り砲丸雨の如く打出し候に付き、逃ヶ候人もこれ有り候え共、踏み止まり候人数左の通り。
 其の外二、三人
 横手御足軽四、五人、其の外二、三人
 湯沢御足軽二、三人
 右人数罷り有り、本道より押し来たり候賊兵近々と引き受ヶ、味方一同に鯨波の聲を作り連発致し候処、賊兵三、四人倒れ、残り賊兵逃げ去り候え共、右砲聲の為か賊兵横後方の山より本陣小屋小屋を目懸ヶ打ち込み候事雨より甚しく、とても首取るべき様これ無く、よんどころ無く其のままに指し置き、味方鯨波の聲を作り引き揚げ坂下り、八丁右の山峰より賊兵打ち候事雨より甚しく、大難儀致し及位村迄引き揚げ居り候え共、賊丸激しく参り候に付き、鏡沢引き揚げの勢と同様御境杉峠(雄勝峠)迄引き揚げ、それより矢込沢(湯沢市雄勝町上院内)番兵仰せ付られ罷り越し、翌二十六日四ッ時交代を得、罷り帰り、且つ小倉藩上田専兵衛指図にて相勤べく仰せ付られ、峠左の山手へ罷り越し同人指図にて番兵致し候。
 [塩根坂合戦の節、及位にて郷夫砲丸に当り即死。矢込沢番兵の節大雨に雨用意無きにて罷り有り候。峠左山道筋大難処。]
 [同様小倉藩属され候人数左の通り。落合養助、三栗谷八右衛門、伊藤源之助、神長清八。]
一、同二十七日、小倉藩片神萬次郎指図にて相勤べく仰せ渡され、それより奥へ罷り越し、新庄藩同様番兵致し候。其の時本道目の下へ賊兵四、五人宛時々参り砲発致し候え共、片神萬次郎指図にて砲発接戦致し候。
一、同日、小倉藩高木市蔵指図にて相勤べく仰せ渡され候。
一、同二十八日朝、本道より賊兵大勢押し来り、七色木(雄勝峠の槻の木の名木)向いの近辺人家火を掛ヶ、七色木近辺御固勢と争戦に相成り、双方砲発雨より甚しく相成り、時に賊、本道より大砲押し来り。其の時市蔵指図にて味方一同に鯨波の聲を作り連発致し候処、賊兵大砲を引き逃去り砲発止み候処、又々賊兵押し来り打ち懸ヶ候。依って味方鯨波作り連発致し、一人にて四、五十発宛打ち候処、賊大砲を引き逃げ去り候。それより味方止めずに賊砲発の煙を見当に打ち罷り有り候処、日暮れに及び山下味方大勝利にて鯨波の聲作り太鼓を付ヶ追い立て、賊兵及位迄逃げ去り候。[新庄藩二十十人位。]
一、同二十九日朝五ッ時、右人数杉峠迄引き取り候。
一、同日四ッ時、惣引き揚げの事に相成り、依って組頭石川角助へ何等の訳にて惣引き揚げの事に相成り候やと伺い候処、銀山口甚だ手薄の処応援これ無く、且つ昨今役内口大難戦の様に相聞こえ、万一横堀川絶切られ候ては兵士一人も引き揚げ候様これ無きゆえ引き揚げ、小倉藩隊長平井小左衛門、陶源之丞より談判に預り惣引き揚げの事に相成り、しかし一大事の御境ゆえ、院内、湯沢、横手、角館四郷の勢にて是非防戦致すべく談判致し候間、又々峠左の山手へ番兵致すべく仰せ付られ罷り越し居り候処、湯沢勢の内一人罷り越し、大山若狭より只今銀山口御固め勢残り無く引き揚げに相成り候ゆえ、早々引き揚べく使武者もって三度まで申し達し候間、早々御引き揚げ成さるべしと申し伝えられ、杉峠迄引取り、それより組頭同様下院内まで引取り内町へ一宿致す。
 [其の夜役内の方大争戦にて、大小砲の音相聞こえ、放火も相見え候。]
一、八月朔日朝未明、院内御番処前迄御繰り出しに相成り罷り越し居り候処、石川小早人罷り越し役内口敗れ、横堀放火に相成り候に付き、大山若狭より引き揚げの事申し伝べく仰せ付られ罷り越すと申し聞けに付き、依って引き揚げ、大山若狭同様山越え致し山田村迄引き揚げ、それより湯沢へ罷り越すべく仰せ付られ罷り越し居り候処、大山若狭浅舞の方へ御出にて又々罷り越すべく申し来候間、罷り越すべく仰せ渡され、夜通しにて浅舞へ罷り越し候処、又々横手へ御出の由、翌二日朝横手へ罷り越し、支配小鷹狩源太御本陣光明寺へ罷り越し、右の趣申し届け候。
一、同日夜暮れ六ッ時、源太御本陣より御催促にて罷り出候処、大山若狭手隙明にて小倉藩隊長陶器源之丞付属仰せ付られ、御沙汰次第出張致すべく仰せ付られ候。
一、同三日朝五ッ時、源太御本陣より御催促にて罷り出候処、昨晩仰せ付られ候通り小倉藩同様只今外之目坂、出張致すべく仰せ付られ、家へ帰り始末を致し、且つ外之目坂へ出張致し、小倉藩同様台場を築き相固め罷り有り候。
一、同四日、小倉長雲隊へ付けられ、隊長徳長吉太郎指図にて相勤め罷り有り候。
一、六日、賊兵間者湯沢町人留五郎と申す者取り押さえ、下人共を付け置き候処、其の夜逃げ去り、下人共追い懸ヶ候え共、行方これ無しとて罷り帰り申す条に候。
一、同八日未明、岩崎へ進撃にて徳長吉太郎同様、本道岩崎川原迄押し寄せ候処、賊兵藤波山より砲発致し、味方よりも砲発、砲戦と相成り、賊兵山より打ッ卸しに砲発致し候え共、味方踏み止り防戦致し候処、、賊方より砲発薄く相成る時に薩州藩一人罷り越し、賊逃げ去り候間、早々進み申す伝えに預り、伊藤助右衛門、石川織之助同様川を越し押し寄せ、藤波山へ五、六十間に相成り候処、賊兵右山杉林へ埋伏し一同に連発致し候え共、味方只三人にて防戦致し兼ね逃げ帰り候処、後日川深瀬にて渡るべき様これ無く、三人共散々に相成り、川下筋へ走らせ下り候処、小倉藩陶源之丞手と行き逢い、右人数同様賊兵と砲戦致し罷り有り候処、本道引き揚げに相成り候間、早々引き揚べく陶源之丞より申し伝えられ、増田、十文字迄引き取り候処、徳長吉太郎と行き逢い、右の趣申し聞ヶ、それより同人指図にて左の田方へ罷り越し居り候処、又々引き揚げに相成り、外之目坂台場迄引き揚げ候。同日七ッ半時石成村迄押し寄せ候処、先手不意を打たれ、又々引き揚げに相成り、外之目坂台場へ引き取り相固め罷り有候。
一、同九日夜、徳長吉太郎罷り越し、今日大勝利の処、如何の訳に候や、只今惣軍引き揚げの事会儀処より申し来候間、引き揚べく申し聞けに付き、依て同様横手迄参り候処、是より金沢辺迄引き揚げ候間、勝手に致すべく申し聞けに付き、依て支配小鷹狩源太御本陣御郷校へ罷り越し、右の趣申し届け、家へ帰り候。

 難局をなんとか切り抜けて横手へ戻った辰之助だったが、その二日後の十一日、横手城は同盟軍の手によって落城し、自宅も焼失した。
 しかし落ち着く暇は全くなく、神宮寺、角館、南部境の蟹湯(蟹場温泉)、森岡(盛岡)へと、矢継ぎ早に転戦を命じられた。
 その間、戦局は悪くなるばかりだったが、政府軍が海路から応援のため次々と参戦するようになってから事情は好転。9月に入って仙台、会津、庄内、南部の各藩が新政府軍の軍門に下り、戦乱は収束した。
 辰之助が横手へ戻ったのは9月27日である。






Last updated  2017/02/17 03:03:33 PM
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野の花2517@ Re:方言が善光寺神社の命名由来(09/24) New! 方言が名前の由来ですか、それも、おもし…
野の花2517@ Re:スポットライトのギボウシ(09/23) スポットライトを浴びて、ギボウシさんも…
野の花2517@ Re:初秋の達沢不動滝(09/22) 滝もすばらしいのですが、1枚目の写真の…
野の花2517@ Re:山岳修行の場・遠藤ヶ滝(09/21) 山岳修行の場といわれると、背筋を伸ばし…
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