カテゴリ:歴史あれこれ
「高野」から「高津野」に 秋田県横手市大雄に「高津野」という地がある。 もう一か所、高津野に隣接した地で東高津野という地もある。 もともと両地とも「高津野」だったが、横手市に合併する際の大字廃止に伴い、両地を区別するために生まれた新字である。 高津という地は全国にあるが、マピオン-高津野で検索して表示された地名はここしかない。 「津」は船着き場や渡し場、港を意味する語である。 日本一短い市名の津市(三重県)や沼津市(静岡県)は、どちらも港町だ。 一方、「高津」はマピオン検索で数多く出てくる。 港の「津」に陸地原野の「野」が付するするのは、もそもありえない地名といえるかも知れない。 六郡郡邑記には、『高野村[不焚野]同一軒、地形名なり』とある。(秋田叢書第2巻) 菅江真澄は雪の出羽路で不焚野(たかずの)を『郡邑記に高野とあり。田村境にして田村は根子(泥炭)を焚くが、ここはそれがないので焚かず野ということから、地名となった。』というふうに記している。 もとは高野と呼ぶ地に、津を挟んで高津野になったのには理由がある。(と私は思っているのだが) 高津野の西側を流れる雄物川は、藩政時代、物資輸送の中核をなしていた。角間川が川港として栄えするにつれ、田村港も賑わった。 田村港は高津野の北端部に接しているので、地名に津が入ったのではというのがその論拠である。 阿気野の戦いの舞台 高津野は、戦国時代末期、小野寺氏の支城の沼館城主大築地秀道(おおつきじひでみち・大築地織部ともいう)と戸沢氏が雌雄を決した「阿気野の戦い」の舞台となった。 『天正14年(1586年)小野寺義道は、最上義光の雄勝郡進出を抑えるために、みずから大軍を率いて国境の有屋峠に向っていた。このとき、横手城には大築地織部だけが留守役として残っていただけだった。戸沢盛安はこの期が小野寺領内進出の絶好の機会としてとらえ、みずからが3千余騎を率いて布晒(ぬのざらし)に布陣した。 これをみた、大築地秀道もただちに阿気野に出陣し、両者は激突した。緒戦は戸沢氏の先鋒楢岡氏が小野寺軍に崩されたため敗走した。これを見た盛安は500人の手勢を従えて敵陣に突き進んだ。 これに白岩・本堂・堀田・門屋らが続き、大激戦となった。 勢いに乗じて戸沢勢は大築地氏の居城である沼館城を攻撃しようとしたが、そこへ小野寺方に援軍が到着したことがわかり兵を退いた。 この戦いで戸沢盛安の勇名は高まり、誰からともなく恐れられ、鬼九郎と呼ばれるようになった。』(武家家伝_戸沢氏・鬼九郎盛安の奮闘から) 阿気野の戦いで詰城(つめじろ)となった高津野城は、隣地の田村城とともに戸沢35城に列している。(大雄村史) 高津野に秋田婦女子実務学寮 高津野には戦前、賢母育成を標榜した秋田婦女子実務学寮があり、農村の女子教育に貢献した。 創設したのは角間川(大仙市)の地主最上義廣である。 しかし時世の変化で、太平洋戦争半ばには食糧増産や国民鍛錬の必要から秋田県第二健民修練所に看板が塗り替えられた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2017/02/19 05:53:37 PM
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