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2017/02/22(水)07:00

地名こぼれ話16・米の字を分解すれば「八木(やぎ)」

歴史あれこれ(37)

八木集落と八木にんにく製品 八木ニンニクは希少品か  秋田県横手市増田町の皆瀬川に接して「八木(やぎ)」という地がある。(上の写真)  菅江真澄・雪の出羽路には、八木村の由来として、米の字を分けて八木としたとあり、また、古くは米を八木(ハチボク)といった、ともある。縄文晩期の八木遺跡があり、非常に古くから開けていた。早くから米が作付されたので、八木の地名が起こったといえるかも知れない。  八木という地は全国津々浦々にあり、秋田県にも数多い。(参考・マピオン-八木)  名字にもあり、「八木」の名字の由来をみると、「柳の生えているところに由来する」とか、「矢木(矢作)から転じた八木もある」というふうに様々である。  増田町の八木といえば「八木ニンニク」で知られている。  そう思っていたので、八木に近い「道の駅十文字」を訪ねたら、八木ニンニクは販売していなかった。旬にちょっと出るだけだという。  次に、「増田観光物産センター蔵の駅」に行ったら生ニンニクはなく、加工品の「八木にんにくソース」が置いてあった。(写真円内)  地元増田高校の野菜専攻班が考案して製品化したものだった。  八木ニンニクはどうやら、生産量が限られる幻のにんにくらしい。 寿用語エトセトラ  米を二つに分ければ八木だが、三つに分ければ八十八で、米寿の祝いとなる。  㐂(喜)の異体字を分解しての七十七は喜寿だ。  仐(傘)の字を崩して、八十は傘寿。  卆(卒)を分ければ九十の卒寿。  百の字から一を取ると白で、九十九は白寿である。  ここまでは分かるが、寿用語はまだまだあった。  六十一歳は華寿、八十一歳は半寿又は盤寿、九十五歳は珍寿である。  さらに、百八歳は茶寿、百十一歳は皇寿・川寿、百十九歳は頑寿、百二十歳は昔寿という。  なぜその用語があるかは「寿」模擬授業指導案に詳しい。  百歳を過ぎたら一年一年が「寿」だから、茶寿以降の寿用語は存在意義が薄いようにも思う。  私の母は九十五歳でみまかったが、九十歳を過ぎてからは「ぽこっと逝きたい」が口癖だった。長寿はおめでたいには違いないが、人の世話に頼るようになっては大変なのだ。 戦前の小作人の苦労  私が参加している歴史研究の会で、地主と小作問題を担当することになった。  あれこれ資料を調査する過程で、国立国会図書館近代デジタルライブラリーから「産業労働調査所秋田県南支局準備会報」という昭和7年(1932年)発行の手書き文書が見つかった。(下の資料写真)  当時、農民(小作農)が地主に対して小作料の減免や様々な改善を求めて全国的に小作争議が頻発していた。個々には力の弱い農民たちは左派系政党傘下組織の力を借りて、闘争運動を展開していたのである。  同会報によると、八木地区は80戸のうち小作農が76戸(95%)で、自作農は4戸に過ぎなかった。1戸当たりの耕作面積は5反歩ほどで、自家の飯米に十分な農家はわずか6戸だった。  いきおい農家の大半は、農業収入は当てにできず、副業や地主への手間稼ぎで生活を補っていた。それでも、年収の7年分を超える1,500円もの借金に追われていた農家もあった。  八木地区では小作人18人が(小作料の)不納同盟を結成して地主に対抗していた。しかし、闘争の過程で同盟員の結束が乱れ、失敗に終わったと同会報は記している。  平鹿郡は当時、小作地が農地全体の7割を占めていた。八木地区は他地区よりその比率が高いとはいえ、地主・小作問題は日本の農村社会が直面する大課題だったのである。   産業労働調査書秋田県南支局準備会報(抄) 国立国会図書館デジタルコレクション・インターネット公開(保護期間満了)

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