カテゴリ:歴史あれこれ
松江の武家屋敷通りと小泉八雲記念館 秋田県横手市大雄赤沼に伝わる「赤沼のおしどり物語」は全国各地にあると、地名こぼれ話17..で記したが、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)も、自身の著書に「怪談」として載せている。 原文は英文であり、それを和訳したのが次である。 『陸奥の国、田村の郷の住人に村允(そんじょう)という名のたか匠がいた。 ある日、村允は狩りに出かけたが、獲物に恵まれなかったので家に帰ることにした。途中、赤沼というところまで来ると、川を渡ろうとしているつがいのおしどりが目に入った。 おしどりをあやめてしまうのは感心したことではないが、村允はあいにく腹を空かせていた。気がとがめたものの、つがいのおしどり目がけて矢を放った。矢は雄に命中して、雌は慌てふためいて向こう岸のい草の茂みに逃げ去った。村允は家に帰ると、射落とした鳥を調理して食した。 その日の夜、村允は不思議な夢を見た。美しい女が枕元に立ってさめざめと泣くのである。村允は胸が張り裂けそうになった。 女はやがて、村允に向かって大声で言った。 「村允さん、どうして主人をあやめたのですか。一体、あの人が何をしたというのですか。私たちは心の底から愛し合って幸せに暮らしていたのに、何の理由があって、こんなむごいことをなさるのですか。主人亡き今、もう生きていけません。あなたは、私をも殺しておしまいになったのですよ。きっと、犯した罪の重さをご存知ないのでしょう。しかし、明日の朝、赤沼にいらっしゃれば、すべてが明らかになります」 次の日の朝、村允は夢に出てきた女の言葉が気にかかった。半信半疑ではあったが、赤沼に行ってみることにした。 赤沼に着くと、昨日見た雌のおしどりが一羽だけで泳いでいた。雌のおしどりは村允の姿を見つけると、身じろぎ一つしなくなった。 しばらくすると、雌のおしどりが突然、けたたましい声で泣き叫ぶやいなや、くちばしで全身をつついて命を絶った。 村允は出家して僧になった。』(引用・おしどり) 八雲は、「みちのく」を「むつ」に、「馬允」を「そんじょう」としている。 その部分の英文 There was a falconer and hunter, named Sonjo, who lived in the district called Tamurano-Go, of the province of Mutsu.(引用・鴛鴦(1/2)) 猟師名は明らかに「Sonjo(そんじょう)」となっている。 前回のブログで、資料によっては猟師「馬ノ允」を馬允、尊允、村允、村庄、など実に様々に表記していると伝えたが、「馬」の部分を「そん」と読んだ初見は、もしかしたら八雲の著書かも知れない。。 古今著聞集巻20(抄) 大坂書林(富山大学情報リポジトリ・著作権フリー資料) 上の写真資料は、明和7年(1770年)に発行された「古今著聞集巻20」の抜粋で、富山大学情報リポジトリからダウンロードしたものである。 赤枠内にあるように「馬」は草書体で書かれている。 草書体では「馬」と「尊」が良く似通っていて紛らわしい面もあり、八雲が間違って読んだ可能性を否定できない。八雲の著書を読んだ人が「Sonjo」に、村允、尊允、村庄などを充てたのであろう。 これより古い写本に近衛本があり、それには「馬」がはっきり行書体で書かれているので、馬であることに疑いの余地はない。 古今著聞集は鎌倉時代の建長6年(1254年)、橘成季によって編纂された世俗説話集である。 古今著聞集よりさらに古い年代に編纂された今昔物語があり、それにも類似した物語が記録されている。 今昔物語は成立年代がはっきりしないが、平安時代後期の編纂とみられる。最古の写本である鈴鹿本が京都大学図書館に所蔵されており、国宝に指定されている。 古今著聞集近衛本と今昔物語鈴鹿本は京都大学電子図書館からデジタル版を閲覧できるが、残念ながらインターネットでの公開は禁止されているので、ここには紹介できない。 小泉八雲は明治23年(1890年)にアメリカから来日、松江で妻を娶って、その後帰化。松江中や東大などで英語教師として教鞭を取った。日本の怪談話を英文で表わした「怪談」が特に有名。松江城に沿った武家屋敷の一角に小泉八雲記念館がある。 ところで、「馬允」は「うまのじょう」と読む。「精選版 日本国語大辞典」によれば 馬允は、『令制の馬寮(めりょう)の第三等官。左右、また、各々に大允、少允があり、正七位下、従七位上相当。』とある。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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