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カテゴリ:社会人のゲーム事情
安政6年1月
熊本は阿蘇山にて火山灰の洗礼を浴びつつ、熊本藩の居城へと意気揚々と乗り込んだ 海援隊一行であったが、城はほとんどもぬけのからであった。 応対に出た熊本藩士、元田永孚は汗をかきかき、藩主細川斉護と重臣宮部鼎蔵の不在を 伝えた。 唯一城に滞在していた家老の長岡監物をバリバリの公議思想に洗脳し、ついでに ヒラ藩士の元田永孚を洗脳したものの、藩論が変わるまでには至らない。 主要人物の少ない熊本藩では、やはり藩主と重臣の影響は大きいらしい。 城を飛び出した坂本竜馬は、屋外に宮部鼎蔵の姿を認めた。 「ここで会ったが百年目、宮部鼎蔵殿!おんしに話しがあって来たぜよ!」 大音声で呼ばわったものの、一向気付く気配もない。 その内、国境で宮部鼎蔵の姿は唐突に消えた・・・・・・と思ったら翌日の朝、再び現れた。 全速力で追いすがった坂本竜馬は、 「ぜい、お、、おんしに・・・、ぜい、は、はなしが・・・、ぜいぜい、あって・・・げほげほ」 宮部鼎蔵は竜馬の異様な迫力に圧倒されたのか、人里離れた山中であるにも関わらず、 地べたに座布団をしきながら話を始めた。 何故か山猿が運んできたお茶を一口啜ってようやく一心地ついた竜馬は、これまで 何度となく繰り返した話を展開した。 その甲斐あって宮部鼎蔵は多少公議思想に理解を示し、自動的に熊本藩の藩論も 雄藩連合へと転換した。 ここで更なる藩論の強化を、と疲れた身体を奮い起こして宮部鼎蔵の洗脳を完了して しまおうと目論んだ竜馬であったが、またしても国境で姿を見失ってしまった。 「まぁよか、ここは一旦退いて薩摩に向かうばい」いかん、九州弁が移ってしまった。 結局熊本藩では藩論は転換させたものの藩主である細川斉護との面会はかなわず、 完璧とはいい難いが、ここでいたづらに時間を浪費するのも如何なものかという意見が 多勢を占めたので、海援隊は一路九州の最南端、薩摩藩の鹿児島に向かうことになった。 薩摩藩も長州藩に次ぐ人材の宝庫であるが、何故か要職に就いている人物が少ない。 かの西郷どんも、先月まで一介のヒラ藩士であった。 「西郷さん、しばらくです」 京都で一度面識があった竜馬は、西郷隆盛の館を訪ねた。 人一倍意志の強そうな面構えは、この説得が容易ならざるものである事を予感させた。 とは言え、お互い思想の違いはあっても、人物は認め合っている。 世間の雑談めいたものから始まり一昼夜、議論を戦わせ、遂に西郷隆盛の洗脳に成功した。 「むむむ・・・見事ばい。この上は坂本さん、おいどんも新しい国体づくりに一肌脱ぐ ばってん」 西郷隆盛は藩主、島津久光への取次ぎと洗脳工作の協力を申し出、程なく薩摩藩の藩論 も雄藩連合へと転換した。 これで西日本は公議思想へと統一されたのである。 再び長崎の町に集結する海援隊隊士。 船の出発までそれぞれ海軍兵学校で勉学に勤しむ者、剣術を磨く者と様々。 漸く全員集合し、本州へと戻った。 船で一気に明石の港まで乗り込むことも考えたが、すでに転向した長州藩、芸州藩の 様子を確認するのと、各地の要人が陸路旅をしている可能性もあるので、 下関から徒歩で近畿を目指すことにした。 海援隊諸子は非常な健脚で、障害がなければ一日で藩境くらいまで平気で歩く。 ここで全員同じ動きだと返って鈍くなるので、山陰ルートと山陽ルートの2班に分かれて 京の都で落ち合うことにした。 道中は何ほどのこともなく、長州藩、芸州藩とも不穏な動きは見られなかったので、 3日ほどもすれば京の都はもうすぐ、というところまで来た。 途中、何人か東日本の藩の要人と接触し、洗脳活動も行い、いよいよ全国統一に向けて 弾みがついてきた。 海援隊を結成して土佐藩を出発した頃と比べると、尊王思想が多かった西日本での 洗脳活動が功を奏し、佐幕に次ぐ勢力に拡大した。 替わって尊王は、今や東日本に僅かに残る勢力と相成ったのである。 まずは京都から琵琶湖を臨み彦根藩へ。 彦根藩主、大老井伊直弼は相変わらず不在である。すでに洗脳が完了している他の要人は 海援隊の面々を歓待してくれたものの、肝心の井伊直弼と話ができぬのであれば長居は 無用。続いて南に下って桑名藩へと向かう。 前年に立寄った際には、藩主の松平春猷が不在であった為、藩論の転向までには 至らなかったのだが、此度は居城に滞在していた。 他の要人に取り次いでもらい、一気に洗脳を完了し、あっけなく桑名藩の藩論を雄藩連合 へと転向させることに成功した。 桑名藩の隣である尾張藩はもともと公議思想が支配する藩であるので一旦そのままにして おき、北陸地方の福井藩から長岡藩、会津藩、米沢藩と続く佐幕ロードへと足を向けた。 かつて海援隊結成のためのメンバー探しの旅で、長岡謙吉は一度訪れているものの、 その他のメンバーは全員ここからは未知の領域であった。 道行く要人も顔見知りはぐっと減り、いやがうえにもアウェーの雰囲気である。 しかしながらここが最大のヤマ場であるというのは全員が承知していることであった。 この佐幕ロードさえ完全に押さえてしまえばあとは僅か数藩を残すのみ。 一気に片をつけられる・・・。海援隊隊士は不安よりも、更にその先の日本の真の夜明け を夢想していた。 春まだ遠い安政6年2月。 雪深い北陸道は、海援隊隊士の前に容赦なく立ちふさがる。 道案内役の長岡謙吉の顔にもかなりの疲れが見える。加えて、長岡謙吉が訪れた頃とは 景色もまったく違い、時折道を誤ることもあったがそれを責める訳にはいかなかった。 「みんな・・・すまんきに、また道を間違えてしもうた」 「長岡さん、この雪じゃしょうがない。さっき通り過ぎた村で一休みするきに」 通りすがりの小さな村で暖を取りつつ体力を回復し、夜を過ごした。 次の日は朝から昨日の悪天候が嘘のような快晴。目指す福井藩の居城も目と鼻の先まで 来ていた・・・。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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