TAICHI WILL BE BACK👍
3月22日の午後4時頃、太一が17年と5ヶ月の生涯を終えました。
写真は遺影に使ってるものと大澤家で撮った最初と最後の写真。
最初の写真は大澤太一になって2日目
最後の写真は亡くなる前日にかごに入れて病院に連れて行って、帰ってきて疲れて寝ちゃった写真
22日に生涯を終えたと書きましたが、ホントに奇跡のようなお話で。。。
結構長いけど、記録用ってことで。
18日に顔が腫れて病院に連れて行かなきゃと言っていた矢先に、父の誕生日だったので、偶然一人暮しをしている四女が電話をしてきて、休みだったのですぐきてもらって一緒に病院へ。
この日辺りから下痢がひどくなり血便が混じり始める。
19日顔の腫れはだいぶ引いたようだけど、前日より明らかに血便の量が増えたので、休みだった三女に太一をまかせ薬を貰いに行く。
20日もはや血便ではなく鮮血と血のゼリーみたいなのが止まらなくなる。
弟が前職の任期を終え一時帰宅。
夜になって足が腫れてる事に気付く。
股脱臼だったら最悪だと寝れない夜を過ごす。
21日仕事を早退させてもらって、次女と祝日診療のある病院へ。
足は脱臼ではなくむくみだとわかり安心する。
新しい抗生物質薬をもらう。
弟は翌日の用事の為外泊。
太一は一晩中寝ずに次女と過ごす。
22日両親は用事の為外出。
私は10時に仕事を終え帰宅。
太一が寝てるうちに、天気が良かったので次女と二人で掃除をしたり、太一が汚したタオルやら膝掛けやらパジャマなんかを洗濯。
太一が起きたので、次女が抱っこ。
昼過ぎに次女と交代して私が抱っこ。
荒かった呼吸が落ち着き太一が眠りにつく。
午後3時50分頃、太一の頭の向きを変えようとしたら首がカクンとなる。
おかしいなぁと思ったら目が開いてたので起きたのねと話しかけるとなんか反応がない。
焦って次女を呼び、二女はなぜか太一を連れて玄関に向かう。
家族に連絡。
病院にも連絡するも日曜日の為、どこも出てくれない。
4時に両親と弟帰宅。
まだ温かい太一を抱く。
太一はまだ目を閉じない。
四女と三女それぞれ早退して帰宅。
みんなの顔を見て安心したのか、太一の目がやっと閉じる。
冷静に父がペットの葬儀屋さんに連絡を取ると、翌日は予約がないからすぐに火葬できるとのこと。
本当はまだまだ一緒にいたいのだけど、翌日の昼には弟がまた3ヶ月間自宅を離れなくてはならず、もう翌朝には太一とのお別れとなった。
硬直したままでは火葬炉に入らないだろうと前足を四女が、首を弟が一晩中マッサージして、朝には腕が曲がるように。
そのおかげか、全身の硬直もとけ、最後みんなが抱っこする時は、いつもの太一を抱いているのと何にも変わらないくらいだった。
不思議と太一の体も冷たくなくて。
葬儀屋さんも太一の最後の姿を見て驚くくらい抱っこされて寝てるみたいだった。
なんだかね、息を引き取って24時間も経たない内に太一の姿が見れなくなってしまった。。。
でも、弟にはこのタイミングじゃなきゃダメだったわけで。
浸りたくても浸れず、太一の匂いのついた物はここ数日のお天気の為に洗濯してしまってあまり残っておらず。
最後の数日、家族全員と濃密な時間をそれぞれに過ごし、掃除や洗濯で身辺整理をさせ、弟に悔いを残させない。
元々男前だったけど、引き際までも男前すぎるじゃないの。
しかも私の40歳の誕生日を目前に。。。
40代の私は見たくなかったのかもね。。。
心配過ぎて(^^;
私が鬱状態で精神崩壊した時も、太一がそばにいて心を癒して助けてくれたから、毎日をなんとか過ごせたし、太一には噛み傷という名の思い出もたくさん体に刻まれたけど、優しい心もたくさん残してもらったなぁ。
涙スイッチはいつでも入っちゃうけど、ちゃんとしなきゃダメなのはわかってる。
よくペットが亡くなるとお空に行きましたとか天に召されましたとか言うけど、太一は縁あって我が家の子になったんだから、きっと次は人間になって大澤家に帰って来ると思うんだよね。
↑ここまでは亡くなってすぐにFacebookにあげた文章を抜粋
2ヶ月経った今の方が、太一ロスがヒドイ。。。
書いた最後の数日のことを思い出しやすくなり、本当に肌身恋しくてたまらない。
太一の冬毛を入れて作った編み太一を毎晩抱きながらじゃないと寝れないし。
17年の重みがどうしたってね。
まぁ、元気でいるけどね、日々は。
なので、ここも復活。
ちょっと原点回帰して、自分の好きな物や事を書くブログにしていこうかなぁと思っております。