睦月かいの戯言

2005/11/13(日)23:12

凍結した時間の後で

作品(4)

薄暗い店内。 それとなく流れるアシッド・ジャズ。 煙草の煙は、逃げ場を無くして、天井でもがいている。 僕はそんな煙を目で追いながら、男の言葉を待った。 どれぐらいの時間が過ぎただろうか? 気持ち良さそうに汗を掻いている、ロックグラスの氷がからん、と音を立てる。 死んだ時間は、僕の中枢神経を掻き乱し、本来あるべき衝動を曖昧なものにしようとしているのか? 「私は妻に欲情したんだ・・・」 男は淡々と語り始めた。彼の視線の先には恐らく過去の自分を見ていたのかもしれない。 「・・・結婚して何年にもなるが、こんなことは初めてだ・・・」 「奥さんのことを愛しているんですよ」 見当違いなことは判っていた。それでも僕は、余り知らない男に対して、罪悪感のようなものを抱いていたのかもしれない。 残念ながら、僕は男のことを救うことなどできない。 「・・・愛してなんかいないさ」男は吐き棄てるように呟く。「むしろ憎んでいる。それこそ殺したいほどに、だ」 「穏やかじゃないですね。どうしたんですか?」 僕は自分の口から出た言葉を、他人事のように持て余していた。 正気じゃない。誰かが僕の頭の中で囁く。その囁きが、男に向けられたものなのか、僕自身に投げかけられた言葉なのか、まったく見当がつかなかった。 「・・・あれは自分以外の人間を愛すことのできない、哀れな女だ」 そういうあなたは、本当に自分以外の誰かを愛したことがあるの? 僕は男の女々しい横顔を、目の前に刺さっているアイスピックで何度も、何度も、何度も刺してやりたい衝動に駆られる。背中に嫌な汗を感じた。 「・・・お子さんが居ましたよね? その・・・奥さんは子供に対してはどうなんですか?」 「変わらんよ。あれは自分の子ですら愛せないような女さ」男は水っぽくなった、バーボンロックを一息に呑む。ピアノ音がやけに耳障りだった。 僕の知っている――愛した彼女はもう何処にも居ないのか? 少なくとも、僕が知っているはずの彼女は、不器用すぎて、自分を無くしてしまうぐらいに相手を求めていた。 僕にはそれが重荷に感じ、高校を卒業と同時に、彼女から逃げるように東京に向かった。 * 「・・・どうしても東京に行っちゃうの?」 「ああ」僕は自分の気持ちが――彼女に対する薄れた想いが、カタチとなり、彼女の心に腐食を起こさせることを危惧していた。腐食した想いは僕を何処までもがんじがらめにする。 「・・・私から逃げたいだけなんでしょ?」彼女の目は真剣だった。 「・・・だぶんそういうことなのかもしれない」 「たぶん? だってあなたのことでしょ?」 「正直わからないんだ。僕の存在は、君の中でしか完結していない。僕自身になるために、何をすべきなのか? 距離を置きたい。君との――君との思い出が詰まったこの街とも、ね」 「・・・それが逃げることじゃないの」 「さあね、僕にはわからない。何度も言うようだけど、本当にわからないんだ」 僕は最後の言葉を保留にして、夜行電車に飛び乗る。 遠ざかる景色が、僕の心を開放し、同時に、蝕んでいった。 彼女の意識だけが亡霊のように、僕の周りを彷徨っている。 * 「・・・君はあれと付き合っていたことがあるんだろ?」 「もう15年ほど前です。学生の頃の話ですから、随分前の話です」 「そうか。君はもうあれのことを愛していないのか?」 「何を言っているんですか。愛するも何も、夫も子供も居るんですよ? 今更、どうしろと言うのですか」 嘘だった。再会した彼女と、3ヶ月間もの間、子供のように互いの身体を求め合った。 凍結した時間は、二人の欲望を――感情の終着点を曖昧にしたまま、溶け出そうとしていた。 そんな矢先に、男と会った。彼女は僕の知らない顔で、夫と子供を紹介してくれた。 * 「ごめんなさい・・・言い出せなくて・・・」 「もう会うのはよそう」 「どうして? あなたのことを愛しているのよ」 「君には夫と子供が居る。義務から目を逸らさないでくれ」 「・・・また、逃げるのね。あの時のように、あなたは卑怯よ」 僕は電話を切り、携帯の電源をオフにした。 彼女の言葉が、耳の中で残響となり、僕を執拗に責める。 彼女が言うように、僕は卑怯なのかもしれない。 * 「・・・あれは君のことだけを愛していたんだ。15年もの間、君への愛情を凍結させたまま、私とままごとのような生活をしてきたんだ・・・私はもう疲れた。あれを引き取ってくれないか?」男は疲れた顔を、僕に向け、力なく微笑んだ。男の頬には、涙の後が醜く刻まれている。 「僕にどうしろと言うのですか? 彼女とは15年前に終わっています。今更そんなこと言われても困ります」 「終わってないだろ。最近まで、あれと会っていたじゃないか。君はまた逃げるのか?」 男は僕の手を掴んだ。死体のようにひんやりしたその感触は、僕の理性を翻弄するかのように、単独で機能している。 「君はそうやって、また彼女から――現実から逃げるのか?」 「あなたはそうやって、また私から――現実から逃げ出すの?」 正直わからないんだ。僕の存在は、君の中でしか完結していない。僕自身になるために、何をすべきなのか? 距離を置きたい。君との――君との思い出が詰まったこの街とも。 「また、逃げるのか。あの時のように、君は卑怯だ」 「また、逃げるのね。あの時のように、あなたは卑怯よ」 彼女と男の言葉が、耳の中で残響となり、僕を執拗に責める。 「君には夫と子供が居る。義務から目を逸らさないでくれ、と言ったそうじゃないか? 君こそ義務から目を逸らさないでくれ。君にはあれを引き取る義務がある」 「僕にはそんな義務はありません。あるのはけじめの問題だけです」 「けじめの問題? 最後の言葉を保留にしたままで?」 僕は最後の言葉を保留にして、夜行電車に飛び乗る。 遠ざかる景色が、僕の心を開放し、同時に、蝕んでいった。 彼女の意識だけが亡霊のように、僕の周りを彷徨っている。 「違う。僕は彼女の中で永遠に閉ざされたくないだけなんだ。僕の存在は彼女の中でしか完結していない」 そう、自分を保ち続けなければいけない。 「保ち続ける意味は? そんなことに一体どんな意味があると言うのだ?」 意味がなければ僕は存在しない。 「存在する必要性があるとでも言うのか?」 必要性の問題ではなく、個人の存続を証明したい。 「証明したところでどうなる? 他人はそんなことに関心はない。君の言っていることは、所詮マスターベーションと同じだよ。ただの自己満足に過ぎん。もっと現実を見たまえ」 僕は名前を持たぬまま、煙草の煙のように、逃げ場を無くして、天井でもがいている。

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