海援隊始末記

2005/11/21(月)22:09

乾退助と薩土密約

坂本龍馬(149)

 乾退助は、天保8年(1837年)生まれで龍馬より2才年下になります。天保9年生まれの後藤象二郎とは同期にあたります。  土佐上士の家格に生まれた退助は、当時の参政、吉田東洋に師事し元治元年(1864年)8月には藩の大目付(大監察)にまで上り詰めます。  文久3年(1863年)頃から中岡慎太郎と知り合い感化を受け、上士には珍しく勤王党への理解を示しますが、大目付という立場上、元治元年の「勤王党の獄」では尋問を行わなければならない立場となり、慶応元年(1865年)1月に解任となります。  慶応2年(1866年)には、藩の仕置役として復帰し兵制改革を行いましたが、慶応3年5月に江戸から京にいった退助は、武力倒幕派の中岡慎太郎、福岡孝悌、谷干城と会い、四候会議が破綻しようとしていた5月21日に、中岡の仲介で薩摩藩の西郷吉之助、小松帯刀、吉井幸輔と会談し、 「薩土倒幕の密約」 を交わします。  あくまでも、土佐藩の正式な許可を得ていない私事の密約でありましたが、倒幕挙兵の際に土佐藩も参加することを約束したわけです。  四候会議も不調に終わり、薩・長そして一部とはいえ土佐も一気に「武力倒幕」への道に進んでいきます。  このままでは、同じ国の者同士の血で血を洗う内戦の開始は避けられない状況でした。  このような状況の中、慶応3年(1867年)6月9日、龍馬はあるプランを持って、後藤象二郎と海援隊の文司長岡謙吉と土佐藩船「夕顔丸」に乗り込みます。  

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