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テーマ:坂本龍馬と海援隊(339)
カテゴリ:坂本龍馬
長崎奉行所の判断を不服としたアーネスト・サトウは、これだけの状況証拠があれば、十分に有罪にできると主張しましたが、結局奉行所は、佐々木の証言によって嫌疑ははれたとして結論を出します。
ただ、佐々木の供述が曖昧であったこと、菅野・渡辺にも落ち度があったとして、「恐れ入るように」という訓告処分で結審しようとしました。 しかし、海援隊側は、聞き入れず、結局奉行所は慶応3年9月10日に「お構いなし」と無罪放免を言い渡してこの審理を終えています。 さてこの事件の真相は、1年後に発覚します。英国公使パークスは、明治新政府にもこの事件の再調査を依頼し、結局犯人は福岡藩士金子才吉であったことが分かります。 彼は事件が国際問題に発覚することをお恐れ、藩庁に自首した後自刃していました。 海援隊は無実でした。 しかし、この事件が結審を迎えた2ヶ月後、アーネスト・サトウの日記に以下のような一文が加えられることになります。 「この私が長崎で知った才谷梅太郎は、数日前、京都の宿で、3名の姓氏不詳の徒に暗殺された。」(「遠い崖」「サトウ日記抄) ・・・そう、龍馬の人生は残り2ヶ月になりました・・・・。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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