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テーマ:坂本龍馬と海援隊(339)
カテゴリ:坂本龍馬
慶応3年11月15日、暗殺直前までを昨日の日記でUPしたところ「板倉槐堂が当日いたのかどうか?」という質問を凛太郎さんよりいただきました。
正直いいます・・・あえて避けてました・・・怪しげなので・・・。 疑問なところもあるのですが、分かる範囲で書いてみたいと思います。 板倉槐堂は(板倉下筑前介、淡海槐堂)は、儒学者であり画家、そして志士として天誅組や海援隊、陸援隊などに資金の援助を行っていた人物です。 さて、11月15日当日、板倉が近江屋を訪ねたという記述は、その弟である江馬天江が書き残した「淡海槐堂先生略伝」にあります。 「丁卯十一月十六日、 坂本竜馬、石川清之助とを先生は河原町四条上る醤油屋旅寓を訪いて雑談、深夜にて家に帰る。 瞬時ならずして刺客来たりて両氏及び力士籐吉殺害さる。 先生、幸いにして難を逃れる。」 まず、「11月16日」という期日は明らかに誤りです(もう龍馬も慎太郎も亡くなっています・・・)。 また、「維新史蹟図説」の中での菊屋峰吉証言では当夜近江屋にいたのが龍馬と慎太郎、籐吉、岡本と峰吉と証言していて板倉槐堂の名前は出てきません。 と、なると板倉が帰ったあと「瞬時ならずして刺客来たりて」という表現は誇張されているのでは?と考えます。少なくとも訪問していたとしても峰吉が近江屋に来たときには、すでに板倉は帰った後だったと考えられます。 また、その家伝として「暗殺のあった夜、槐堂は自作の白梅の絵を贈り、龍馬は喜んでこれを床の間に掛けた。」と伝えられていますので、当日訪れたかな・・・とは思うのですがちょっと曖昧な感じがするので確証が持てません・・・(否定する材料もないのですが)。 ただ、暗殺直前まではいなかったと思うのですが・・・。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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