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テーマ:坂本龍馬と海援隊(339)
カテゴリ:龍馬暗殺の謎
伊東甲子太郎と中岡慎太郎・坂本龍馬が暗殺当日(慶応3年11月15日)以前に接触していたとする記録があります。
元芸州藩士、船越衛が大正元年11月に温知会席上で語った体験談によれば、 「慶応3年11月中旬、石川清之助が近藤勇等のために暗殺されました。 その前月に、伊藤甲子太郎は石川清之助の旅寓に行って石川に面談して、 私は新選組の一人であるが、おまえを殺すことになっておる。私が新選組におっておまえにそういうことを言えば、あるいは嘘かと思うかも知れぬが、決して嘘ではない。新選組はいろいろ変遷して来て、今日でははなはだよくないことになっておる。 それで、お前等は天下の名士であって、国家のために尽くすことは承知しておる。承知しておるので助けたい。今日、私はその方針に向かって天下の名士を助けようと思うから、どうかお前も私の言を用いて、なるべく危険を避けていただきたいと忠告した。」 伊藤の忠告をいったん無視した慎太郎は、思い直して忠告通りいったん船越衛の宿に身を隠しています。 「その前月」とあるので、慶応3年10月の出来事であると思われます。慶応3年3月10日に新選組から分離独立をした伊東に対して、新選組から中岡慎太郎暗殺の命令が出たとは思えませんので、新選組による襲撃に対する注意をしに行ったと考えるのが正しいかと思います。 もう一つは、明治33年3月の史談会で元御陵衛士だった阿部十郎が語った以下のような内容があります。 「私どもは高台寺におりましてございますが、慶応3年の十月十八日でございますが、坂本龍馬が来ました。」 「何分、坂本龍馬が市中におりましては危険でございますから、しばしば忠告いたしましたのでございます。けれども我々を勤王家が疑っておりますので用いませぬ。」 10月18日に用事は不明ですが龍馬自ら高台寺の御陵衛士を訪ねています。また「しばしば忠告いたしましたのでございます」という言葉からしても面識は十分にあったと考えられます。自分から訪ねていくぐらい警戒心はないし、特別な用事でっもなさそうなので親交は結構あったのではないでしょうか。 ただ、どうしても「市中におりましては危険」ということは受け入れなかった・・・、近江屋での振る舞いといいなぜここまで警戒心がなかったのかという点についてはまた別のカードの時に解説したいと思います。 上記2つの話を総合すると、「伊東と藤堂がいきなり暗殺当日近江屋を訪ねて新選組による襲撃を忠告し、龍馬に無視された。」という話はやはり違うのではないかと考えるのですが・・・。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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