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テーマ:坂本龍馬と海援隊(339)
カテゴリ:龍馬暗殺の謎
歴史の事実の検証にあたる場合、資料の信憑性というのが重要です。
もっとも信頼がおけるのが、事件があってすぐに記録された公式の記録、次いで後日談として記録された当事者による談話でしょう。 それでも「事件があってすぐに記録された公式の記録」にも例外があって、捕まえられて身の保全のために行った証言などはゆがめられている可能性もありますし、当時の権力者によって都合よくゆがめられている可能性も否定できません。 そして、その次にくるのが「家伝」かと思います。当事者が家にその様子を伝え、代々伝わってきたものであり、長年の間に家族の思いなどが加わり、「正確な事実」ではなくなっている可能性が高いと思われます。 ただ、「家伝」〓「嘘」でもなく、実は歴史の鍵を握る新事実を含んでいる可能性もあるのです。 そういった事も含めての記述になります。 見廻組が龍馬を斬った実行犯であるとしたら、それは「京都の治安維持を目的とした正当な活動であったかどうか?」というのが最大のポイントになります。 言い換えれば、実行犯が「暗殺」を自覚していたかどうか?がポイントです。これによって昨日書いた理由の 「1 京都の治安維持のため、上司の命により龍馬を捕まえにいったが、状況をみて殺害した。」 そして、最大の焦点であり、一般でもよく知られている、 「5 幕府上層部では龍馬の罪は許されていたが、下部では知らず殺害してしまった。」 か、どうかがはっきりすると思います。 ここで登場するのが、今井信郎の妻「いわ」の証言です。 これは『坂本龍馬を斬った男』(今井幸彦著:新人物往来社)にあるとこころの「今井家口伝」として伝わっていたものであり、その内容は、 当日の朝、桑名藩士渡辺吉太郎が訪ねてきてと一緒に出かけた今井信郎は、三日後に右手を懐に入れて帰宅し、右手人差し指がぱっくり口を開けていて、背中を向けて手の傷を治療した。 「どうなされた?」ときいても「うるさい」の一言で、それ以上は問えなかった。 翌十二月九日いわゆる「王政復古の大号令」が発せられ、今日の町々は挙げて騒然となって見廻組は二条城に立てこもり、いわは再び乳飲み子と留守を預かる身となった。 そうした暮れも押し迫った一日、おそらく見廻組が二条城から大阪に移動する直前と思われるが、信郎は突然帰宅し、「お前たちはこれから早かごで江戸へ発て。荷造りは俺も手伝ってやる。」とたいへんなせかせようである。 思うに戦火はもはや避けがたく、京の都も修羅場と化す覚悟の上の緊急策だったのだろう。 そしてのその時、一本の大刀を渡し、「これで坂本龍馬を斬ったのだと榊原先生にお目にかけてくれ」といった。 その刀は彰義隊の変で行方不明になったとも、榊原が方々に見せて歩いている間に行方不明になったとも伝えられています。 もちろん、暗殺翌日に新選組では見廻組の犯行であると知っていた節もあり、必ずしも事件直後に秘密にされていたとも限らず、「5 幕府上層部では龍馬の罪は許されていたが、下部では知らず殺害してしまった。」のちに、幕府に報告→事件の重大さに驚いた幕府が隠蔽と言う可能性がないわけではありません・・・。 しかし「家伝」である今井の妻「いわ」の証言を信じれば、龍馬を斬ったことは事件当時妻にもいえない極秘事項であり、その一月後、京を離れるにあたって初めて打ち明けられた秘事であったことが伺えます。 ・・・・とすると、見廻組が実行犯であると仮定した場合、今井が妻に見せた態度は、「京都の治安維持を目的とした正当な活動」とは思えず、「公然と殺してはいけない相手を殺してしまった。」いわゆる『状況を理解した上で「暗殺」を行った。」というのが、正しいのかもしれません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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