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テーマ:坂本龍馬と海援隊(339)
カテゴリ:龍馬暗殺の謎
<疑問2>菊屋峰吉は第一発見者であったか?
「維新史跡図説」の中で紹介されている、菊屋峰吉本人の証言では、中にはいるのに躊躇していた嶋田庄作より先に近江屋の中に入り、龍馬と中岡を発見したことになっています。 これは本当でしょうか? 先にある通り近江屋新助の急報を土佐藩邸で受けて現場に向かったのは土佐藩下横目の嶋田庄作で有ることは間違いありません。 「坂本龍馬下宿の件」の中で中川嘉兵衛は、 「坂本氏の斬られしとき、白峯(白峰駿馬)氏は藩邸よりの報知により、拙宅(酢屋)より近江屋へ駆けつけたるなり。」 この時点では「藩邸」から知らされたとあることから嶋田の知らせを受けて、海援隊士の白峰駿馬が現場に急行したものと思われます。 その後、「宮地彦三郎真雄略伝」においては、 「帰宿後少時にして同志より、ただいま近江屋へ刺客襲来して、坂本、中岡隊長をたおせりとの急報に接し、おどろきて近江屋に到すれば、すでに藩邸の人々、同志の者等、座にありしが、坂本氏は一言、二言ばかり話してまもなく息絶え・・・・。」 「一言、二言ばかり話して」とあることからこの時点ではまだ生きていたということで、暗殺からさほど時間の経っていない状況で海援隊士宮地彦三郎が同志の連絡を受けて現場に到着したことがわかります。 また「土岐真金の履歴書控」においては、福岡藤次の知らせで岡本健三郎と同行して海援隊士島村要(土岐真金)が近江屋に到着し、中岡の遺言を遅れてやってきた田中光顕に知らせたとしています。 さて、ここまでの記録において菊屋峰吉の言うように「龍馬と中岡を最初に発見し、瀕死の中岡からの直接の依頼で、陸援隊に急を告げにいった。といった内容は出てきません。 しかも、次回説明しますが、中岡慎太郎を発見後すぐに本人の依頼を受けて陸援隊に急を告げに言った・・・とするのは明らかに「虚言」なのです。 では真っ先に事件現場にいた峰吉が他へ事件を急報したという記録もありません。 峰吉が龍馬暗殺の第一発見者であったとする記録は峰吉本人の談だけで非常に疑わしいと思われます。 では、峰吉は本当に「陸援隊に事件を知らせにいったか?」を次回検証したいと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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