「佐高信氏特別講演」後編
佐高氏直筆によるレジュメの「Ⅰ西郷隆盛と清河八郎」、「Ⅱ司馬遼太郎と藤沢周平の対照的八郎観」については、前回[7月23日(火)]に掲載しましたので、今回は「Ⅲ 明治維新とは?王政復古」から記していきます。 前回もお知らせしまししたが、佐高先生が話された概略のまた概略になりますのでそのつもりでお読みください。▼ 佐高信氏直筆のレジュメⅢ 「明治維新」とは?王政復古 小畑実と言う人の唄に「勘太郎月夜唄」と言うのがある。その二番か三番かだったかに、「菊は栄える、葵は枯れる」と言う文句がある。菊は栄えて葵は枯れるっていう文句を唄の中に盛り込んだ。菊は皇室、天皇の紋。葵は徳川の紋を言っている。明治維新と言うのは王政復古で、つまり、天皇の世に戻すと言うことなんだから、明治維新と言うものが本当の意味での改革だたのか、清河八郎と言う人物は何を望んでいたのか、此処が一番大事な点だと思う。Ⅳ 「不耕貪食の徒(ふこうどんじきのと)」 年貢半減令と相楽総三 レジュメの4番目に「不耕貪食の徒」と書いた。安藤昌益と言う秋田出身の幕末の思想家で、この安藤昌益が「不耕貪食の徒」と言う言葉を残している。「不耕貪食の徒」と言うのは、”耕さず、貪り食う輩”と言うことで、百姓、当時八割を占めていた百姓、農民から見て、武士、あるいは公家のことを言っている。 徳川幕府が長年続いて腐ってきた。その幕府を改革すると言う、しかしそれは、侍の世が続くと言うことであり、徳川から薩摩、長州が取って代わるだけのことだった。天皇を敬う尊皇の世にしての倒幕と言うことは、その時に本当に百姓にとっての改革だったのかどうか、「不耕貪食の徒」と言うものを無くすための改革だったのか、清河八郎はそこをどう考えていたのか、私はそこが一番これから明らかにされなければならないのだと思っている。 その下に年貢半減令と相楽総三と書いた。薩摩、長州のいわゆる官軍と、それに対抗したのが奥羽越列藩同盟で、長岡の河井継之助なんかを含めた奥羽越列藩同盟との対抗の中で、勢力は拮抗していた。 勢力が拮抗していた時に、当時八割を占めていた百姓をどっちの味方につけるのか、と言うことが当時非常に大きな問題だった。それで官軍は新しい世になったら年貢を半分にする「年貢半減令」と言うのを出した。 西郷隆盛は、誠実一途な人でもあり、策謀家でもあった。西郷は、相楽総三や、清河八郎とも近かった、伊牟田と言う人などを使って、年貢半減令を触れ回させた。 相楽総三は、赤報隊を組織し新政府になったら年貢が半分になると信じて触れ回り味方になる百姓達を増やしていった。 しかし、新政府になって年貢を半分にしたらやって行けないことが分かり、あいつらは偽官軍だと言って、相楽総三を捕まえて断罪した。 私は清河八郎もこの相楽総三と同じ運命をたどったのではないかと思っている。つまり、清河八郎の中にはやっぱり百姓、農民への思いは武士以上に強いものがありながら、維新と言うものが、本当に百姓の為のものなのかどうかと悩む前に亡くなってしまった。 西郷隆盛が年貢半減令と言うものを出した時に、清河八郎は真っ先に賛成したに違いない。 明治維新は百姓にとっては裏切られた革命、裏切られた変革だった。その歴史の中で清河八郎と言う人が何を望んだのかを押し出していくことが、大きなポイントではないだろうか。 清河八郎がこう言う手紙を両親に書いている「父上も、母上も、私と言う奇男児(奇妙の奇に男児、男の子)をお産みになされたのです。であるからには、奇なる、奇妙な禍福、災い福をお受けするのも是非なきことだからお諦めください。」 こういう風に、清河八郎が自分で言っている様に、変わった男が何を望んでいたのかと言うことがポイントで、私はやっぱり、年貢半減令と言うものが百姓の味方と言うところに行ったのかどうか、あるいは行く可能性があったのかどうか。こういうところが大きなポイントになって来ると思っている。 Ⅴ 清河八郎の可能性・大川周明、石原莞爾と比較して 藤沢周平さんがエッセイ集「周平独言」の中で三人の予見者として、石原莞爾、大川周明、そして清河八郎を書いている。 この三人はある種の悲運を背負って亡くなっている訳だが、やっぱり普通の人と比べ真直ぐな道を歩けないところがあると言うか、歩めないと言うか、歩きたくないと言うか、藤沢周平さん自身を含め平らな道を歩きたくないと言うか、只、その三人と同じ故郷だと言うことが、私を含めて皆さんにとっても幸福であるかどうかと言う問題です。(会場:あちこちで笑い) 私は東洋経済と言うところで新田嘉一さんについて書いた。新田さんは農家の跡取りに生まれながら稲作を継ぐのを放棄して畜産に挑んだ。当時それは非常に非常識なことで、しかしそれはあえてその道を歩むと言うか、清河八郎も嫡男として収まっていれば収まる。それを収まらずに出ていく。 石原莞爾は戦後最大の戦争責任者は誰かとアメリカ軍に聞かれた時、トルーマン大統領と答えている。原爆を落としたトルーマンだと。その言葉はある種正しいが、そう言う、全然恐れないで喋るところが石原莞爾にはある。清河八郎にもそう言うところがあった。そうしたことが、ある種の秩序の中でしか生きられない司馬遼太郎からは凄く鼻についたのだろうと思う。 大川周明の凄いところはイスラム文化に着目していることで、アジアと言うものはイスラムを含むんだと言っている。キリスト教の世界とは別のものとしてイスラムと言うものがあることに早い時期に傾注していた。 そう言う、ある種正道と言うか、広い道と言うか、そう言うものは歩きたくないと言うか、そういうものでなくてある種険しい道を選んで歩きたくなると言うようなものが、石原莞爾、大川周明、清河八郎の三人の中に流れている。 それは、やっぱり、ある種庄内の風土と言うものとも関係しているのかも知れない。 新田嘉一さんのことを書くときに、斎藤茂吉の「最上川さか白波の立つまでに吹雪夕べとなりにけるかも」と言う歌を引きながら、新田嘉一と言う人も❞さか白波❝の人だったと。つまり、運命にそのまま従う人ではなくて、ある種運命に逆らって生きた人だと。その❞さか白波❝の系譜のやっぱり近世の先人が清河八郎だったのだろうと私は思う。 最初に返りますが、西郷隆盛と清河八郎と言う風に比較した時に、清河八郎と言う人の使ったエネルギーの方が、私は西郷の使ったエネルギーよりも大きかったと思う。しかし、そのエネルギーと言うものをある種使わなければならなかった。そういう側面も清河八郎にはあったのかも知れない。三十三歳で亡くなっということは勿論悲劇だが、ある種誰よりも魁て成し遂げようとしたものの大きさ、激しさ、そういうものが清河八郎と言う人物をクローズアップすると言う風な気がする。 清河八郎個人の様々なエピソード、様々な事象も、もちろん大事だ。そこがこれから色々探索されなければならない訳だが、それを明治維新と言うものの中でどう位置付けるか、それは端的に言って、百姓、当時大多数を占めていた百姓にとっての世の中だったのかと言うことと、無縁に語られるものではないし、語られてはならないのではないかと思う。 最後に、演題の「真実」には到底迫ったとは言えないことは喋っている私が分かりるが、外せないポイントと言うのはお示ししたつもりだ。拙い話ですが、一応これで私の務めを果たさせて頂く。どうも失礼いたしました。(会場:満場の拍手) この後質問の時間が設けられ、四人の方が質問あるいは報告されtました。中には評論家佐高信来庄に期待して「次の自民党総裁に選ぶとすれば」などと演題とは無関係の質問がありましたが、質問コーナーの記載は此処では省略させて頂きます。 最後に当日の資料に掲載した清河八郎顕彰会会長齋藤満の挨拶文を紹介します。 本日は、佐高信氏をお迎えしての特別講演会の聴講においでいただき誠にありがとうございます。 佐高先生には大変ご多忙の中、遠くからお越しいただきありがとうございました。 清河八郎公については、知られていない部分が多くありますが、今回の佐高先生のお話が聴けることを待ち望んでおりました。本日おいでの皆様も期待しておられることでしょう。 また、共催団体であります、庄内町「清河八郎」大河ドラマ誘致協議会では、真の人間像を伝えるため、、清河八郎を主人公とする大河ドラマを誘致すべく活動を展開しています。今回の講演で、清河八郎公の今まで知られざる真実を知ることが出来ましたら、同協議会への応援をよろしくお願いいたします。 想定した以上の皆さんからご来場頂き、また佐高先生には清河八郎を語る上で、『「不耕貪食の徒」と百姓』と言う、貴重な視点を教えて頂いたことに感謝し、今回の講演会報告といたします。▼ 佐高先生への花束贈呈