佐々木俊尚 著 「"当事者" の時代」
筆者の本は波長が合うのか、「キュレーションの時代」など何冊かを興味深く読んだ。そして今回、書名には、ここのところとても気になっている固有名詞が‥‥、しかし分厚い。470ページの書下ろしであるが、何とか、やっと読み終えた。 以下、目次 プロローグ 三つの物語 第一章 夜回りと記者会見――二重の共同体 第二章 幻想の「市民」はどこからやってきたのか 第三章 一九七〇年夏のパラダイムシフト 第四章 異邦人に憑依する 第五章 「穢れ」からの退避 第六章 総中流社会を「憑依」が支えた 終 章 当事者の時代に 昨今、テレビなどでネガティブなニュースに対して、これでもかこれでもかと正義の味方よろしく浴びせてくる映像に、なかば辟易していた。また、世の中どこを見回しても、どこにも当事者らしき人が見当たらない。もっともこれは自分の胸にそっと手を当てて考えるべき問題であり、耳の痛いテーマであることは確かである‥、が、とにかく気になっていて興味がある書名だった。 プロローグではエポック的な3つの物語が断片的に示され、第一章では、著者の記者経験を中心に内幕が語られている。第二章以降からは、1960年代の半ばくらいからの時代の変化を読み解きながら、ストーリーが展開する。筆者がキーワードにしている《マイノリティ憑依》が1970年に表出し、以降40年以上にわたって、日本全体に浸透、拡散してしまって、今日に至っているという、その記者出身の筆者の視点がよく伝わってくる。 参考文献には100冊の本が記されているが、その豊富な文献から、登場人物も多彩である。 吉本隆明、加藤秀俊、川島豪、松下竜一、津村喬、竹内好、伊藤整、世耕弘一、 伊丹万作、小田実、村上春樹、小熊英二、四方田犬彦、山本義隆、定村忠士、 久野収、いいだもも、李智成、北小路敏、太田竜、黒田寛一、大森勝久、 本多勝一、山口昌男、フランク・カッシング、折口信夫、加藤典洋、アル・ジョルソン、 村上泰亮、小沢雅子、斎藤茂男、鎌田慧、石井義治、寺島英弥、など、 このなかでも、60年代後半の小田実、津村喬など代表的何人かのキーマン的な人物の考え方を取り込んで流れが進んでいくが、終章でのバス放火事件の展開は息を呑む。当事者になるとはこういうことかという悲痛この上ない事例が紹介されている。 最後に裏表紙に抜粋して書かれていることを‥、以下引用。 “その国のメディア空間は、その国の社会の「写し絵」でもある。マスメディアが衰退し、インターネットのソーシャルメディアが勃興してくるなかで、その「写し絵」であることはますます強度を増している。多くの人々が情報を自由に発信できるソーシャルメディアは、人々の集合的無意識の発露でもあるからだ。 東日本大震災とそれに続く福島第一原発の事故が明らかにしたのは、《マイノリティ憑依》が実は日本社会の集合的無意識を侵食しているということだった。決してマスメディアだけでの問題ではない” 《マイノリティ憑依》という視点にあらためて、目に見開かされた一冊である。