『アダム・ルーベンスの誕生』
Adam Ruberans..アダム・ルーベンスの泳ぐ姿は あまりに美しく見る人を魅了した。そして彼は 若く,愛情に満ちていた。。と言ってもこの青年は 僕の想像上の人物であり現在『夜の海に座る青年』と題を付け描いている小説の主人公である。始まりは 去年の冬にふと考えたストーリー。その時点では 人物も二人だけで名前も分からず話の結末だけしか浮かばなかったのである。年があけ2004年4月.. 鎌倉小町通りにある古本屋で”3冊500円”のコーナーに目がとまった。そこで僕は三冊の本を買ったのである。一冊は 「佐藤正明展1970~1990 山梨県立美術館1990」あるデザイナーの作品写真本でポップアートの要素が感じられるもの。もう一冊は 民俗学の父と言われた柳田國男を色川大吉が評論する本。そして 『アダム・ルーベンス』誕生のきっかけとなった画家の本「世界美術全集 ルーベンス」である。"ペーテル.パウル.ルーベンス"1577年6月28日現ドイツのケルンで誕生(実際はジーゲン)15歳でアダム.ファン.ノールトのアトリエに入門。このアダム.ファン.ノールトの"アダム"と"ルーベンス"を合わせ『アダム・ルーベンス』である。『アダム・ルーベンス』では すこし奥ゆかしい 笑かなと思い”ランス”槍”で力強くさせてみたところ 響きもよくイメージにぴったりだった。『アダム・ルーベランス』しかしルーベンスのイメージを濃くしたいために あえて『アダム・ルーベンス』にしようと思っている。しかし画家ルーベンスの影を色濃くまとっているのは 主人公アダムではない。アダムの父アントニオ・ルーベンスである。『アントニオ・ルーベンス』は 生粋の画家。観たものをまるで写真のように描き,彫刻する能力を持っている。若かりし日の彼は まるで400年前を生きたペーテル.ファン.ルーベンスのように富豪達の肖像画を描いていたのである。彼の才能は 見事世にみとめられ開花した。しかし ある日を境にそんな生活も変わり出す。アダムの誕生である。アダムが成長するにつれその才能に引き込まれていく父アントニオは 彼の成長を風景とともに絵として記録し始める。スペインで産まれた父アントニオは 子供のアダムに懐かしい思いを抱きながらフラメンコを教えた。その覚えの早さになにか奇妙さを感じるのだ。やがてアダムは 遊び場を海辺へと変えて行く。 RUBENS(ペーテル.パウル.ルーベンス)年表1596 19歳 オット.ファン.フェーンの弟子になる。1600 23歳 5月9日,イタリアに旅立ち 6月,べネチア到着 7月,マントウ゛ァ公の知遇を得て宮廷画家になる。10月,フィレンツェでフランス王アンリ4世とマリー.ド.メディシスの代理結婚式に出席。1601 24歳8月,ローマにおもむきフランドル総督アルベルト大公よりローマサンタ.クルーチェ寺エレーナ礼拝堂祭壇画の注文を受け翌年完成1602 25歳ベェローナーで,イタリアを訪れた古典学者の兄フィリップとその友人ヤンに会う。1603 26歳3月5日 スペイン王フェリッペ3世と大臣レルマ公への贈物を持ちスペインへ旅立つ。王には 美しい馬車と選りすぐりの馬6頭,火薬,香料など主席大臣レルマ公には ローマの名画をルーベンスが模写した20点, 到着後 レルマ公から自身の騎馬像,キリスト像,12使徒の制作依頼を受ける。1604 27歳ジェスイット教会のために,3身1体,キリスト洗礼,キリスト変容,を描く。(同年,シェークスピアの『オセロ』初演)1607 30歳7~8月,マントバァ公と共にジェノバに行きサンンタンブロージオ聖堂の祭壇画,キリスト割礼を制作。そのあとローマに戻る。1608 31歳母病気の報,ローマより帰路につくが,母の死に間に合わず。兄フィリップとクロースタストラートの家に住む。1609 32歳4月,スペイン領ネーデルラントとオランダが12年間の休戦条約締結6月,ルーベンス イタリアへ留学した人々の「友愛会」メンバーになる。9月,アントウェルペン在住 アルベルト大公の宮廷画家となる。10月13日聖ミカエル教会で,イザベラ.ブラントと結婚。(同年,ガリレイが天体望遠鏡を発明)1611 33歳3月,長女クララ.セレーナの洗礼。8月,兄フィリッペ没。9月,アントウェルペンの自警団よりノートル.ダム大聖堂の祭壇画の制作依頼を受ける。(中央画は翌年,両翼は2年後完成)1614 37歳長男アルベルト誕生。1619 三十年戦争始まる。1620 43歳3月,アントウェルペンの新しい教会,聖カルロ.ボロメオ教会の祭壇画3点と天井画39点の制作をジェスイット会と契約。助手にウ”ァン.ダイク。マリアの昇天,聖イグナスティウス.デ.ロヨラの奇跡,聖フランシス.ザビエルの奇跡この3点はウィーン美術史博物館に現存。(同年 イギリス清教徒.メイ.フラワー号でアメリカ大陸に渡る。スペイン,オランダの12年間休戦条約終了。)1623 46歳5~6月,パリ訪問。この頃から政治の舞台にも。10月 長女クララ没1625 48歳4月,イギリス王ジェームズ1世没,チャールズ1世即位。5月,ルーベンスはチャールズ1世とマリー.ド.メディシスの女王アンリエッタ.マリーとの代理結婚式に出席。その後ほどなくバッキンガム公に会い,公の肖像制作。6月,スペイン軍によりブレダ陥落,ルーベンスはパリからアントウェルペンに帰る。7月,イサベラ大公妃がルーベンスを訪ね,勝利の記念として彼女の肖像を描く。11月,バッキンガム公,英蘭条約締結のためハーグに赴く途中,ルーベンスを訪問。1626 49歳 6月,妻イサベラ.ブラント没。アントウェルペン大聖堂の祭壇画,マリアの昇天を描く。12月,バッキンガム公に売った作品を船積みするためカレーに赴く。その後パリへ。1627 50歳 イザベラ大公妃より殿下の称号を授与される。ブレダ訪問,更にオランダへ。デルフトでゲルビェルに会い共にアムステルダム,ユトレヒト訪問。目的は 英西蘭間の和平のためであったがこの間,ホントホルスト,フランス.ハルスなどの多くの画家と出会う。10月,再びオランダに短期間旅行。その後 1630年53歳の時に37歳年下のエレーネ.フールマンと結婚。54歳 ヘェリペ4世よりナイト爵を授かる。55歳 エレーネの第一子クララ.ヨアンナ誕生。56歳 エレーネ第二子フランツ誕生。58歳 一切の政治的仕事から身を引く。59歳 フェルディナンドの宮廷画家に。62歳 1640年5月30日アントウェルペンの自宅で死去。聖ジャック教会で葬儀。400年前時代を駆け抜けた天才画家をモチーフに『夜の海に座る青年』を描こうと思います。 ヨーロッパを中心に 絵や歴史,自然そして海を描きたい。そんな思いで執筆予定です。どうぞ宜しくお願いします。作者『Kaizu』より 皆様へ。