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2012年01月16日
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カテゴリ:歴史・文化

こんにちはぱー 「ネタチョウ」ですぅぅぅウィンク

皆さん、「洗堰(あらいぜき)」ってご存知ですか??

?琴奨菊関なら、知っているって!? それは、お相撲でしょショック雫

今回は、「洗堰」をご紹介しますねぇぇぇぇ!!

 

ではまず、海津市内をに向かいます車 テッテケテー足跡

すると、海津市のほぼ北の端、桜並木さくらが続く堤防に行きあたりますモータースポーツ

桜並木

この堤防はかつて長良川から分流し高須輪中の北端を揖斐川へ西流していた大榑川の左岸堤防です荒波旗

大榑川は長良川が増水ショックする度に発生する洪水から高須輪中を守るために開削された人工河川でした!

つまり、長良川の水勢を緩和するため大榑川経由で揖斐川に流したというわけですぱー(この大榑川が完成したのは元和5年(1619)と言われていますびっくり

ところが、揖斐川と長良川の川床に2m以上の差があったために大雨が降ると長良川の水は激流となって大榑川に流れ込み、今度は大榑川流域に多くの洪水被害をもたらすようになっていましたしょんぼり

そこで、長良川の分流部分に「堰」を作って大榑川への流入量を調整しようと考えられましたひらめき

ここに作られた「堰」は「洗堰」といって、ある一定の水位を越えると自然に越流する仕組みになっていました!!

賢いですね~びっくり

 

実際には堰は場所を変えて何回も作られ、その後も紆余曲折を経て、最終的に明治32年(1899)の「明治改修」によって大榑川は締切られることになります!!(最初に堰が作られたのは寛延5年(1750)のことですウィンク

1-2

この「洗堰」!お隣の輪之内町さんとの境付近にあったようですが、残念ながら、今はその面影を見ることはできません涙ぽろり

が、

その仕組みを簡単に勉強できる場所がありますうっしっし

それが、海津市の北にある、へら鮒釣りうお座有名大池公園グッド地図

大池公園

の中にある「洗堰公園」ぺんぎん

3

4

ここではその仕組みを耳目で確認できますオーケー

 

まずは、この公園の解説パネルの前へ・・・

この公園の全容が分かります卒業式

5

次にパネルの右下のボタンを「ポチッ」うっしっし

すると、洗堰の説明が始まりますスピーカ

そして!

長良川と揖斐川にが流れてきます荒波

6 

そして、しばらく・・・

なんとびっくり

長良川が増水ですショックほえーダッシュ

 おお~っ!!!

長良川から水があふれるぅ~号泣しょんぼり

7

と、思ったら、

増水した水は、真ん中あたりの「洗堰」を越え大榑川を通って揖斐川に流れ始めましたウィンク

8

長良川の水はあふれることなく増水は治まったのですぽっ

よかったよかったふたご座黄ハート

9

 

何百年も続いてきた高須輪中水との闘いは、簡単に語りつくせるものではありません!!

太古の、この地域は低湿な沼地で、揖斐・長良・木曽の三大川荒波によって運ばれた土砂が徐々に堆積し、陸地化させました!そして、この高須輪中に人が住み始めたのは平安初期とも言われています。その時代から様々な水害対策が施され、壊れ、施され、壊れ、繰り返された水との闘いショック!!

その知恵の一端を知ることができる「洗堰公園」目ちょっと寄り道して「ポチッ」としてみてくださいウィンク四つ葉

(水との闘いと言えば、有名な薩摩藩による宝暦治水ヨハネス・デ・レーケによる明治改修などがありますが、それはまたねバイバイ

 

(この記事は、国土交通省中部地方整備局木曽川下流河川事務所発行の「KISSO」を参考にさせていただきましたノート

 

このと共に歴史を刻んだ海津市シリーズうっしっし

次回掲載は未定です^_^;

「ネタチョウ」ウィンクグッド

 






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Last updated  2012年01月19日 20時50分12秒
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