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テーマ:まち楽ブログ(32555)
カテゴリ:歴史・文化
こんにちは~
![]() ![]() クロちゃんですぅ これまで歴史の話がちらほらありましたねっ 今回は「高須四兄弟」を(簡単にですが)ご紹介させていただきます
そもそも「高須四兄弟」とは... 高須十代藩主松平義建の6人の息子のなかで、養家において幕末維新史に残る活躍をした以下に紹介する4人のことです
「松平義恕」 高須十代藩主松平義建の次男で、尾張十四代藩主となります このとき名前を徳川慶勝と改めます 尾張藩は、明治維新の際に新政府軍として東征軍に参加していますが、慶勝は維新後に朝敵とされた実の弟の容保・定敬の助命に奔走しています その後明治3(1870)年に名古屋藩知事となり、明治8(1875)年尾張徳川家を再相続します
「松平義比」 義建の五男で高須藩を継ぎ十一代藩主となります 安政5(1858)年、兄慶勝の後に尾張十五代藩主となりました このとき名前を「茂徳」と改めます 親幕の体制を整え、文久3(1863)年に家督を慶勝の子に譲ります。その後は名を「茂栄」と改め、慶応2(1866)年に一橋家(江戸時代における御三卿のひとつ。いわゆる徳川将軍家の分家)を相続しました。
「松平容保」 義建の七男で、会津藩主松平容敬の養子となり、嘉永5(1852)年に会津九代藩主となりました 桜田門外の変の後、水戸藩の去就について話し合いが持たれた際には水戸殿を討ってはならないとして幕府と水戸藩の調停に努め、幕府から重きをおかれます 文久2(1862)年京都守護職に任じられ、京都の治安維持にあたります 公武合体派として孝明天皇の信頼厚く、純緋の御衣を下賜されていますが、武士が御衣を賜るのは大変稀有で名誉なことでした。鳥羽伏見の戦い以後新政府軍に朝敵とされ、会津戦争で1カ月の籠城戦の末降伏しますが、赦免後に日光東照宮の宮司となります。そしてなんと孫娘が皇室に輿入れ(秩父宮妃殿下)しています
「松平定敬」 義建の八男。桑名松平家の養子となり、安政6(1859)年に桑名十三代藩主となりました 元治元(1864)年、京都所司代(京都守護職の下位機関)に任じられ、兄の容保と共に京都の治安維持にあたります。鳥羽・伏見の戦いの後、江戸から柏崎(新潟)に移りさらに会津で容保と再会し、仙台から箱館(函館)に渡っています。明治2(1869)年に横浜に戻り降伏し、赦免後は容保のあとを継承し日光東照宮宮司となりました。
右から慶勝、茂栄、容保、定敬
兄弟たちは対立・協調を繰り返しながら幕末~維新を生き抜き、 明治11(1878)年、慶勝の呼びかけで四兄弟は再会を果たしています 銀座の写真館で写真撮影を行い、慶勝の別邸で会食をしたそうです ちなみにこのときの写真代は割り勘だったとか...wwww
高須松平藩の資料が歴史民俗資料館3階にて、ご覧いただけます (若かりし日の容保の写真もあります!! 海津にゆかりの深い偉人に思いを馳せてみてはいかがでしょうか
資料の一部
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Last updated
2012年06月15日 15時34分46秒
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