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2013年01月31日
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カテゴリ:歴史・文化

こんにちは!Tate  PONですウィンク

間もなく立春さくらだというのに、なかなか春の兆しが見えないですねーしょんぼり

 

さて、大河ドラマビデオ「八重の桜さくらにも登場する、

会津9代藩主松平容保美濃高須藩(海津市)の出身で、

養父松平容敬(かたたか)とは叔父と甥の関係だという事は、

前回チラッと触れましたよネあっかんべー

 

今回は、もう少しそこのトコロをつっ込んでみたいと思いま~すうっしっし!

 

会津8代藩主の容敬は、水戸徳川家から高須9代藩主となった松平義和(よしより)の子として、1803、江戸小石川(東京都文京区)の水戸藩邸(現在の東京ドームとその周辺)で誕生しましたグッド

 

 容保の実父で高須10代藩主の松平義建(よしたつ)は1799年に同じく水戸藩邸で生まれていましたから、容敬の兄という事になりますきらきら

1311.JPG

当時の会津藩主はなぜか子どもに恵まれず、7代容衆(かたひろ)4歳(!)

で当主となっています!しかもあまり丈夫ではなかったと言われていますから、

周囲の人たちは不安だったんでしょうネー失敗

 

ある時、ひとりの会津藩家老が、親しくしていた水戸藩家老に、

この悩みを打ち明けたんだそうですダッシュ

(世間話のついでっていうか、同業者の愚痴みたいな・・・?)

 

そしてなんと!幼い容敬(当時3歳:幼名算三郎)をこっそり会津家へ養子させ、

表向きは容衆の異母兄弟ということにする話でまとまります。

 

一説には、義和(当時は(もり)(すけ)と名乗っていました。)が水戸家から高須家へ養子に入ることが決まった後に、身分の低い女性から容敬が生まれたので、水戸藩の家老も困っていて、渡りに舟!とばかりにこの養子縁組が成立したとも言われていますオーケー

 

1312.JPG

上矢印義和自作の茶碗ごはん(海津市歴史民俗資料館蔵)

 

 う~ん。幕府にウソの届け出をすることになるので、

この家老たちもよっぽどの覚悟がないと出来ませんよねーしょんぼり

ただ、江戸時代の大名家は、後継者がいないと御家断絶!ショック

になってしまうので、会津藩もそれだけ必死だったんでしょうが・・・ほえー

結局、容敬は17歳で会津藩を継ぎました。

 

以後30年間会津藩主を務めた容敬ですが、兄の義建が遺した書物ノートに、

 

 「・・・若松城主会津四位中将容敬は、私と深いゆかりのある人物で、折々に交歓を重ねている。この間和田倉(東京都千代田区/現在の皇居前広場の一角)の会津藩邸を訪ねたとき・・・」

 

と書かれていて、兄弟の交流があったことが分かりますスマイルグッド

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江戸城和田倉門内の会津藩上屋敷(江戸切絵図より)

 

ちなみに高須松平家の系図パレットには、容敬のことは

「義和三男。文化3(1806)年某月某日 故あって他家を継ぐ」

とだけ記されていて、かえって意味深な気がしないでもないですけど。

まあ、これも体面を重んじる武家社会ではアリだったのでしょうか・・・びっくり

 

以上、容保以前から結ばれていた会津と海津の絆についてご紹介いたしましたウィンク!

では、次回エピソード2をお楽しみに!!

 

注:本文中「  」内は、わかりやすく現代文にしてあります。






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Last updated  2013年01月31日 14時01分48秒
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