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テーマ:まち楽ブログ(32191)
カテゴリ:歴史・文化
こんにちはTate PONです 間もなく立春だというのに、なかなか春の兆しが見えないですねー
さて、大河ドラマ「八重の桜」にも登場する、 会津9代藩主松平容保は美濃高須藩(海津市)の出身で、 養父松平容敬(かたたか)とは叔父と甥の関係だという事は、 前回チラッと触れましたよネ
今回は、もう少しそこのトコロをつっ込んでみたいと思いま~す
会津8代藩主の容敬は、水戸徳川家から高須9代藩主となった松平義和(よしより)の子として、1803年、江戸小石川(東京都文京区)の水戸藩邸(現在の東京ドームとその周辺)で誕生しました
容保の実父で高須10代藩主の松平義建(よしたつ)は1799年に同じく水戸藩邸で生まれていましたから、容敬の兄という事になります 当時の会津藩主はなぜか子どもに恵まれず、7代容衆(かたひろ)は4歳(!) で当主となっていますしかもあまり丈夫ではなかったと言われていますから、 周囲の人たちは不安だったんでしょうネー
ある時、ひとりの会津藩家老が、親しくしていた水戸藩家老に、 この悩みを打ち明けたんだそうです (世間話のついでっていうか、同業者の愚痴みたいな・・・?)
そしてなんと幼い容敬(当時3歳:幼名算三郎)をこっそり会津家へ養子させ、 表向きは容衆の異母兄弟ということにする話でまとまります。
一説には、義和(当時は保右と名乗っていました。)が水戸家から高須家へ養子に入ることが決まった後に、身分の低い女性から容敬が生まれたので、水戸藩の家老も困っていて、渡りに舟!とばかりにこの養子縁組が成立したとも言われています
義和自作の茶碗(海津市歴史民俗資料館蔵)
う~ん。幕府にウソの届け出をすることになるので、 この家老たちもよっぽどの覚悟がないと出来ませんよねー ただ、江戸時代の大名家は、後継者がいないと御家断絶! になってしまうので、会津藩もそれだけ必死だったんでしょうが・・・ 結局、容敬は17歳で会津藩を継ぎました。
以後30年間会津藩主を務めた容敬ですが、兄の義建が遺した書物に、
「・・・若松城主会津四位中将容敬は、私と深いゆかりのある人物で、折々に交歓を重ねている。この間和田倉(東京都千代田区/現在の皇居前広場の一角)の会津藩邸を訪ねたとき・・・」
と書かれていて、兄弟の交流があったことが分かります 江戸城和田倉門内の会津藩上屋敷(江戸切絵図より)
ちなみに高須松平家の系図には、容敬のことは 「義和三男。文化3(1806)年某月某日 故あって他家を継ぐ」 とだけ記されていて、かえって意味深な気がしないでもないですけど。 まあ、これも体面を重んじる武家社会ではアリだったのでしょうか・・・
以上、容保以前から結ばれていた会津と海津の絆についてご紹介いたしました では、次回エピソード2をお楽しみに
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Last updated
2013年01月31日 14時01分48秒
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